15.或る騎士の誓い
バダンテール伯爵令嬢が、彼女を迎えに来たティトルーズ小公爵と共にアッシュフィールド邸を発った翌日、同じく屋敷に滞在していたアンジェレッタは社交の約束があると言ってベルナールを置いて先に王都へ戻った。
アッシュフィールド伯爵はあと数日で戻るというので、ベルナールはアッシュフィールド伯爵が戻るのを待ち、挨拶をしてから王都に戻る事になっている。
「……ベルナール様」
ウルスラが母親と結婚式の花嫁支度について相談する間、ベルナールがサロンで借り受けた経済の本を読んでいると、ひと段落したのかティーワゴンを押しながらウルスラがやってきた。
本来、お茶の支度など令嬢がやる事ではないが、ウルスラはベルナールが屋敷に滞在する間あれこれと世話を焼きたがり、暇があればこうしてお茶を淹れたり、自ら料理を振る舞ったりしてくれている。
気持ちはとてもありがたいのだが、伯爵の名代でありながら贈り物の一つも持参せずに来てしまった身には余る接待の数々に、ベルナールがほんの少しばかり気後れしてしまうのも事実だった。
「少しお休みなられてはいかがですか」
カップに紅茶を注ぎ、そっとビスケットが盛られた皿をテーブルに置いてウルスラが言う。ベルナールはその言葉に素直に頷いて本を閉じた。
ビスケットと共に皿に盛られたクラッカーに、添えられていたリンゴのジャムを付けて口に放り込む。
リンゴの酸味が甘味と程良く混ざり、紅茶と合わせるとふわりと香りが鼻先を抜けるのが心地良い。
ウルスラの手製だというジャムは、領地で採れた果物を使って作っているという。
結婚後はレインバード領でも同じようにジャムを作ってくれる事もあるのだろうか。
そんな事を考えていたらウルスラがそっと口を開いた。
「ベルナール様は、まだお怒りでいらっしゃいますか」
その言葉に、次のクラッカーへと伸ばしていた指先が止まる。
ベルナールは無言のまま居住まいを正してウルスラを見詰めた。
今日は淡い水色の屋内着を纏っているウルスラは、ベルナールからの答えを待って、微動だにせずピンと背筋を伸ばしている。
ここ数日、ベルナールはバダンテール伯爵令嬢へのあまりに軽過ぎる処分について納得できず、少しだけ頑なな態度を取ってしまっていた。
滞在日数は残り少ないのだし、王都に戻れば次にウルスラと実際に顔を合わせる事が出来るのは結婚式の直前となる。
良くない雰囲気のまま離れたくない気持ちは勿論あるのだが、ベルナールは今回の結果について自分の中で上手く折り合いをつけられないでいる。
頭では理解しているのだ。
公爵家へ恩を売る良い機会になったし、知らない土地に嫁ぐウルスラには見知った友人が必要で、それが優秀な人物であるのなら申し分ない。全て理解は出来ている。
しかし、ベルナールの脳裏からは暗い倉庫で木箱にもたれて弱々しく己の名を呼んだウルスラの姿が離れない。
本人は乱暴な事はされなかったと言ったものの、あんな場所に閉じ込めるのは十分乱暴ではないか。
それを思い出すと、どうしても最終的に「納得出来ない」という考えに行き着いてしまうのだった。
「怒りは怒りであるのだが……、これは私の狭量が問題であって君が納得しているのならばそれで良い、はずなんだ」
「ベルナール様は狭量などではございませんでしょう」
歯切れ悪く答えたベルナールに、ウルスラが小さく首を傾げる。
それは過大評価だ、とベルナールは決まりの悪そうな表情を浮かべて、ゆるりと首を振りながら溜め息を吐いた。
「私は君の事となるとどうにも心の狭い男になってしまうようでね」
「まぁ」
「君があんな目に遭った事についてバダンテール令嬢を到底許せそうにないし、あとは、大切な君を守れなかった自分の不甲斐なさに腹が立って仕方がなくて、数日経つのになかなか感情に折り合いをつけられないでいる。……私は未熟だな」
ベルナールがもう一度大きな溜め息を吐くと、ウルスラがカチャンと小さな音を立ててカップを置いた。
いつも優雅な所作で音を立てたりなどしないウルスラの珍しい失態に、ベルナールは驚いて視線を上げる。
視線の先のウルスラは、淡々とした声で失礼しましたと言った他は、特に普段と異なる様子は見られなかったが、彼女がすっと目を逸らした瞬間、栗色の髪に隠されていた耳が真っ赤になっているのが見えた。
ウルスラは感情や声音はいつだって同じに見えるが、実際のところ、表情が動きにくいだけで実に感情豊かであり、その感情は表情以外には割とわかりやすく表れる。
今のウルスラはとても照れているらしい。
何に対して照れているのかベルナールはよくわからなかったが、ウルスラは数秒間じっと何かに耐えるように深く呼吸をしてからベルナールに向き合った。
「……私が下した処分ではありますが、実のところ、彼女の行った事を全て許した訳ではないのです」
「そうだったのか。やはり怖い思いもしたし、やりきれないところは……」
「──ダンスを」
「うん?」
「せっかく王宮のホールでの夜会でしたから、夜会の最後にベルナール様ともう一度ダンスを踊りたかったのです。ですが、それは叶いませんでした。非常に悔しく思っております」
ゲスト達が帰った後の静かなホールで二人きりのダンスが出来たら、どんなに素敵だっただろう。
人生に二度とない機会を逃した事について、彼女が無表情ながら本当に腹を立てているのが伝わってきて、ベルナールは思わず笑ってしまった。
世間では氷の伯爵令嬢だの何だのと呼ばれているウルスラは、こうして実際に心を交わせばとても可愛らしい女性である。
すっかり毒気を抜かれてしまったベルナールは、カップのお茶を一気に飲み干してからよしと顔を上げた。
「正直、やはり処分に納得出来ない気持ちはあるが、過去に戻れる訳でもないのだからこれ以上考えていても仕方ない。そういう事にしよう」
「ひとまずご理解頂けて安心致しました。これからは私自身もご心配をお掛けする事のないよう、身辺警護について見直す所存です」
「あぁ、そうしてくれると私としても安心だ」
処分は既に下っているのだ。もう覆る事はない。
この辺が落とし所だろうと互いに理解して、二人は視線を交わして頷いた。
ウルスラは今度は音を立てず、完璧な所作でティーカップを口許に運びながら言った。
「結婚後の護衛騎士の選任はベルナール様にお任せした方がよろしいのでしょうか」
「そうだな、うちの騎士団から何人か私が選ぼう」
「騎士と言えば、騎士家系の方であれば伯爵位を持ちながら騎士身分も持つ事も珍しくはないと聞きますが、ベルナール様はもう剣を置かれるのですか」
「……それなのだが」
ウルスラに問われ、ベルナールは自らの利き手である右手に視線を落とした。
ベルナールが怪我を理由に騎士団を辞めたのは事実である。
時折左手に力が入らなくなるという後遺症について、現段階では完治する見込みがない為、騎士団に在籍するのに必要な基準を満たせなくなったからだ。
騎士団から抜けても叙勲された経歴は残る。返上しなければ騎士身分もそのままだ。
次期当主になると決めた時、母に騎士には戻らないと誓ったベルナールだったが、だからといってすぐにそれを捨て去れる程騎士である自分に思い入れがない訳ではない。
子供の頃から騎士になるのが夢だった。
騎士になってからは騎士として己の剣で誰かを守れる事が誇りだった。騎士であった期間、ベルナールは本当に自らの人生に満足していたのだ。
今の次期当主としての自分にもようやく馴染み始めたが、どうしても騎士としての自分を全て捨てる事は出来ずにいる。
「騎士団は退団したが、全く剣が使えない訳でもないから騎士身分についてはまだ返上していないんだ」
「さようでございましたか」
「自分でも未練がましいと思う。だが、父から正式に伯爵位を継承したら騎士の称号は返上するつもりだ」
ベルナールは苦笑して肩を竦めたが、一方のウルスラは何かを考えるようにじっと押し黙ると、珍しく眉間に僅かに力を入れて言った。
「返上なさらなくてもよろしいのでは」
「しかし」
「ベルナール様が伯爵位をお継ぎになっても、ベルナール様の魂が騎士であるのは事実です。あの夜も、私を助ける為に一番に駆け付けて下さったではありませんか」
「……君は私が騎士である事を許してくれるのか」
「当然です。騎士団をお辞めになったとしても、ベルナール様は誰よりも騎士らしくていらっしゃいます。騎士団を辞める事は致し方ないとしても、騎士団を辞める事と騎士である事そのものを辞めてしまうのとでは全く意味が異なります」
そう語ったウルスラに、ベルナールはぽつりと「そうか」と一言呟いた。
それまでのベルナールの中では、伯爵となる為に騎士身分はいつか手放さなければいけないものとして認識していたが、婚約者は自分が騎士で有り続ける事を肯定してくれた。
そればかりか、誰よりも騎士らしいとまで言ってくれた。
ベルナールは大きな歓喜を感じ、剣の柄を握るかのようにぐっと強く右の拳を握った。
「……そうか、騎士である自分を捨て去る必要はなかったのか」
そしてベルナールはおもむろに席を立ち、座ったウルスラの横まで来て跪いた。
「私は次期当主として今後は家門の為に生きると誓った。私は騎士ではなくレインバード伯爵として家門を守り、立派に務めを果たそう。だが、同時に騎士の魂を忘れず、騎士道に背く事なく生きたいと思う」
「ベルナール様……」
「一人の騎士として、私は君に剣を捧げたい。許してくれるだろうか」
跪くベルナールに見上げられ、ウルスラはぴしりと数秒間固まった後、どこかぎこちない動きで両手で顔を覆ってこくんと頷いた。
顔を覆ったままのウルスラが、ぼそぼそとベルナールに答える。
「……今後、どなたが護衛騎士について下さったとしても、私の騎士様はベルナール様ただお一人です……」
いつもの淡々としたものではなく、小さくて、震えた声だった。
それが泣いているように聞こえて、ベルナールは思わず顔が見たいと口にした。
顔を覆ったままのウルスラは嫌だと首を横に振ったが、ベルナールが続けて三度請うと、渋々といった様子で両の掌をそろりと離した。
「顔など見ても、ご存知の通り、私は泣くことも笑うことも出来ないつまらない女ですのに」
「そんな事はない。表情なんて取るに足りないものの為に、君をつまらないなどと私は思ったりしない。それに、そんなものがなくても、君がそのままで充分愛らしい事を私は知っている」
「……ッ!」
その真剣な言葉に僅かに目を見開き、再び顔を隠そうとしたウルスラの両手を捕まえて、ベルナールはその指先に口付けを落とした。
「あぁ、次に会えるのは三ヶ月以上先だというのに、ここに私の剣が無いのが口惜しいな。今すぐ君に剣を捧げる誓いを立てたいのだが、これでは他のものしか誓えない」
「ほ、他のもの……? それは何です?」
予想もしていなかった言葉を次々に贈られ、耳も頸も真っ赤に染めて小さく震えるウルスラが息も絶え絶えに問うと、ベルナールは騎士然とした凛々しさを纏って微笑んだ。
「──愛を」
これなら自信を持っていつでも誓える。
そう笑顔でベルナールが答えた瞬間、感情の許容量を超えたウルスラはその場でふっと気を失ってしまった。
椅子の上でぐらりと傾いた身体を咄嗟に抱き止めたのでウルスラが床に倒れる事はなかったが、その日の晩餐でウルスラは恥ずかしさから、頑なにベルナールを見ようとはしなかった。
そんなウルスラを見て、彼女が倒れた事についてベルナールから報告を受けていたウルスラの母ディアーナは、至極おっとりとした口調で言った。
「ウルスラ。あなた、このままでは結婚式の誓いのキスでも卒倒してしまいそうでとても心配だわ。小伯爵様が屋敷に滞在されている間に練習しておいた方がよろしいのではなくて?」
その一言に、ベルナールは飲んでいたワインに盛大に咽せ、ウルスラは手から銀のカトラリーを落とし、同席していたイザベラとアランは余計な火の粉が自分達に降りかからないよう、即座に口を噤んで身を縮こませたのだった。
そしてベルナールが王都へ帰るまでの残りの期間、二人は結婚式の練習という名目で朝と就寝前に頬に挨拶のキスをする事がディアーナによって決められたのである。
「……殿方というものは愛情表現が随分と直接的なのですね……」
その夜、いつものように就寝の挨拶にと部屋を訪れたウルスラがそう呟いたのを聞いたイザベラは、よっぽど「それは殿方という括りではなく小伯爵様がお姉様をとても愛してらっしゃるということよ」と言ってやろうかと思ったが、あと数ヶ月もすれば結婚する二人だ。
わざわざ自分が教えなくとも、このように傍目にもわかるほどの愛情を注がれたら流石に姉も気付くはずだし、こういうのは自分で気付く事も大切だと思い直して喉まで出かかった言葉を飲み下した。
「えぇ、そうね。お姉様」
ウルスラは頷いた妹の頭を撫で、次いでやや目立つようになった新しい命の宿る腹の膨らみを愛おしげに撫でて、頑張って慣れるわと言って部屋へ戻っていった。
その背中を見送りながらイザベラはぼんやりと、愛されているのは感じていそうだけれど、その愛情の大きさには気付いてなさそうだと察して、義兄に応援の念を送るのだった。
──そして慌ただしく結婚式の準備は進められ、あっという間に数ヶ月が経った。
その日、名門貴族の結婚式が行われるとあって、王都の大聖堂やその付近の大通りには、結婚式の後、慣例通り大聖堂から貴族街へ移動する婚礼馬車や花婿達の姿を一目見ようと人が集まっていた。
──ゴォン、ゴォーン。
ざわめく空気の中、雲ひとつなく穏やかに晴れた青空に、大聖堂の鐘が鳴り響く。
それは、ベルナール・レインバードとウルスラ・アッシュフィールドの結婚式の始まりを告げる祝福の鐘だった。