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13.暗雲・後編

 ──時間は少しだけ遡る。

 控え室から忽然と姿を消したウルスラを探し、ベルナールはまだホール内にいるゲスト達に気付かれないようにレインバード伯爵及び伯爵夫人、それからアッシュフィールド伯爵を呼んだ。

 ベルナールが事の次第を説明すれば、すぐさまアッシュフィールド伯爵がそれはおかしいと声を上げる。


「うちの娘は筋の通らない事は絶対にしない性格だ。夜会を抜け出すなど、するはずがない」


 その言葉に、レインバード伯爵夫人も深く頷く。


「えぇ、ウルスラさんはそのような無作法をなさる方ではないわ」

「では何処に行ったというのだね」


 レインバード伯爵は声をひそめて問うが、その答えは駆け付けてきたベルナールの弟・セレスタンからもたらされた。


「兄上。給仕の一人がメイドに先導されて裏の停車場の方に向かう彼女とマイケルを見たらしい。今夜、裏の停車場はゲスト用に使っていないから、そこから連れ出されたんじゃないかな」

「馬車か。少々厄介だな」

「あぁ、それから、義姉上に付けていた侍女が空き部屋から発見された。拘束された状態でね。薬で眠らされていたみたいだ」

「何だと。となると、これは事前に計画されたものと見て間違いないな」

「まぁ、突発的にやろうと思ってやれるものではないだろうね」


 肩を竦めるセレスタンが小さく溜め息を吐いたのと同時に、ふらりとアッシュフィールド伯爵の足元がよろめいた。


「……そんな、ウルスラ……。私の可愛い娘が拐かされたと……? 一体誰がそのような事を……」


 呻くように呟いたアッシュフィールド伯爵は、そのまま近くのソファに倒れるようにして座り両手で顔を覆った。慌ててレインバード伯爵が気付け用の強い酒を差し出す。

 その傍らで、ベルナールはぎりと奥歯を噛み締めた。


(同じ場所にいながらウルスラを守れないとは……何たる無様か!)


 今にも飛び出していきそうな兄の様子に、セレスタンは自分が冷静にならねばと再び大きな溜め息を吐く。

 だが、意外にもその場を差配したのは、激昂しているであろうベルナール本人であった。


「……この時間、王都は警備の為に外郭門が閉ざされている。ウルスラはまだ王都内にいるはずだ。父上、王宮の通行記録の確認をお命じ下さい。セレスタンは夜会警護に当たっていた騎士団の隊長を此処へ。母上、ウルスラは退出したとそれとなく皆に伝えて頂けますか」


 ベルナールの指示に皆が首肯を返し、それぞれのやるべき事の為にその場を離れる。

 残ったのはベルナールとアッシュフィールド伯爵だ。

 項垂れる伯爵の足元に跪き、ベルナールはウルスラを守れなかった事を詫びた。

 だが、伯爵は己も同じ立場であると言って、ベルナールに謝罪の必要は無いのだと力無い声で返した。


「母親が欠席した以上、私がもっと側についていてやるべきだったのだ……。ウルスラは昔から何でも卒なくこなす娘だった。だから控え室に戻ると聞いた時も、つい一人でも大丈夫だろうと……」


 肩を落とす伯爵の様子に、ベルナールは人を呼んで彼をアッシュフィールド邸へ送るよう手配した。

 少なくとも、このままずっと王宮のホールに留まり続けるより、慣れた屋敷の方が心が休まるだろう。


「ウルスラが見つかり次第すぐに連絡を入れます。どうかお気を確かに」

「ありがとう。役に立てず申し訳ないが、どうか、どうか娘を頼む」


 停車場から伯爵の乗った馬車を見送り、ベルナールはふと空を見上げた。

 いつの間にか空の端が僅かに明るくなっている。

 いつもなら清々しさを感じるはずの夜明けが、その時のベルナールには何故かとても恐ろしいものの到来のように感じられ、焦りを押し殺して名を呟く。


「ウルスラ……」


 ウルスラが停車場へ向かったのが目撃されているが、彼女が誰にも言付けを頼まず自らそこへ向かった理由については脅されただとか、騙されただとか、幾つかの推測が立っていた。

 ベルナールにとっての最悪は、彼女が彼女の意思でこの場所から逃げ出したというものだが、それだけは無いと信じている。

 もしも何か思うところあれば、彼女は彼女なりの伝え方で自分にそれを教えてくれたはずだからだ。

 夜会の疲労と、ウルスラ失踪の不安から己の焦りを自覚し、ベルナールは夜明け前の冷えた空気を胸一杯に吸い込んで幾らかの冷静さを取り戻す。

 一人気合いを入れ直していると、騎士団員と共にセレスタンがこちらに向かって駆けてくるのが見えた。

 その表情からして、何か情報を得たようだ。


「──兄上!」

「今行く」


 名を呼ばれ、ベルナールもまた合流の為に駆け出したのだった。




 ──そして時間は現在へと戻る。

 ドアの外から聞こえた大きな音に、マイケルの手によって木箱の陰に隠されたウルスラはびくりと肩を跳ねさせた。

 ウルスラを庇うように前に立ったマイケルも同じく肩を跳ねさせ、緊張に身体を強張らせながらも震える手で空き瓶を構えてドアの方を睨み付ける。


「ウルスラ! マイケル! いるか!」


 ばん、とやや乱暴に開けられたドアから聞こえたのは焦りを含んだベルナールの声で、マイケルは一瞬ぽかんとした顔になるとへなへなとその場にへたり込んでしまった。

 手から離れた空き瓶がからからと音を立てて地面を転がっていくのと同じくして、ベルナールを先頭に、倉庫の中に何人もの騎士達が入ってきた。


「マイケル! 無事か⁉︎ ウルスラは何処にいる!」

「お、奥様なら、あちらに……」

「……ベルナール様……」

「ウルスラ!」


 ベルナールが自分の名を呼ぶ声を聞いた瞬間、安堵に身体の力が抜けてしまったらしい。

 木箱にもたれかかるようにしてベルナールの方へと向いたウルスラは、次の瞬間、強く抱き締められて比喩でなく一瞬呼吸が止まった。

 ぐ、と呻き声を上げてしまったのが聞こえたのか、すぐに腕の力は緩められたが、それでも無事を確かめるようにぎゅうぎゅうと抱き締められている。


「すまない。怖い思いをしただろう。もう大丈夫だ」

「いえ、私こそ皆様にご心配とご迷惑をお掛けして申し訳ございません。マイケル様も巻き込んでしまって、一体何とお詫び申し上げれば良いか……」

「君のせいではない。そのような事は気にするな」

「ですが……。あの、ベルナール様」


 ベルナールの腕の中で、ウルスラは何とか身を捩って彼の左腕をそっとなぞり、恐る恐る問い掛けた。


「お怪我の方は大事ありませんか」

「問題ないが……。まさか」


 その質問に、ベルナールは彼女が誘い出されたであろう内容を察して唇を噛んだ。

 おそらく、左腕の傷が悪化しただとか、そんな内容で下手人は彼女を誘い出したのだろう。他者への心配を逆手に取るとは卑劣にも程がある。

 こんな状況でも、自分の事よりベルナールの心配をするウルスラの姿に、ベルナールは大きく息を吐いて彼女の細い肩に額を押し付けた。

 腕の中のウルスラはその行動に少し戸惑っていたようだったが、今となってはベルナールがすっかり見慣れてしまった無表情でこくりと頷き、一言だけ呟いた。


「ご無事で何よりですわ」


 全くもっていつも通りの口調で紡がれたウルスラの言葉に、ベルナールはそれはこちらの台詞だと力なく笑って返したのだった。




 ──その後、ウルスラとマイケルの証言をもとに騎士団が付近を捜索し、近くに停められていたバダンテール家の馬車内からウルスラのイヤリングが発見された事により、港近くの貴族向けホテルに身を隠していたバダンテール伯爵令嬢はその身柄を確保された。

 とはいえ名のある貴族令嬢であるので、見張りを付け処遇が決まるまでの間ホテルの一室に留まって貰っている状態らしい。

 彼女が夜会に潜入させていた者達も併せて確保され、一旦は騎士団預かりとなった旨をウルスラはアッシュフィールド邸へ向かう馬車の中で聞いた。


「それにしても、よく私達があの場所にいるとお気付きになりましたね。随分と奥まった位置にあったはずですが……」

「あぁ、あれは本当に運が良かったんだ」


 王宮から出た馬車が二台、深夜にも関わらず貴族街ではなく港方面へ向かったと調べがつき、その馬車がどちらもバダンテール家のものであると確認出来た事でベルナールは騎士団と共に港へ向かった。

 そしてセレスタンが港の利用申請書を確認している最中に申請のない船が入港してきたのを騎士団員が見つけ、下船してきた船長を尋問すれば、彼はすぐさまデルフィーヌの指示での航行である事を告白した。

 しかし、港や船内をくまなく捜索してもウルスラとマイケルの姿はなかった。

 ベルナールは騎士団と協力し、バダンテール伯爵令嬢が滞在するホテルへ人を送ると共に、自分はバダンテール伯爵家が所有する倉庫エリアへと馬を走らせた。

 その途中で、ベルナールと騎士達は倉庫の高窓に不思議なものを見つけたのである。


「バダンテール家の倉庫は端の高台にあるから、港から上がる道だと高窓がよく見えるんだ。そこに白いものが見えてね。人だというのはすぐにわかった。だが、労働階級の者なら白いジャケットなど着ないし、貴族であればあんな場所には登らない。しかも見ようによっては窓から出ようとしているようにも、侵入しているようにも見えた」

「なるほど、つまり騎士団は侵入者の確認という大義名分を得て、特権で倉庫に入る事が出来たのですね」

「そういう事だ」


 騎士団とはいえ、理由なく貴族の倉庫に立ち入る事など出来はしない。

 例えウルスラがそこに囚われているとしても、その確固たる証拠が無ければ、所有者の許可なく倉庫を確認する事も出来ないのだ。

 だが、倉庫に侵入しようとする人影を見たとなれば話は別である。

 王都を守護する騎士団には、治安維持の為に特権が与えられており、その特権の行使は主に現場の判断に委ねられる。

 結果的に、窓から脱出して助けを呼ぼうとしていたマイケル自身が目印となって皆を引き寄せたのだとベルナールは言い、そして全く知らなかったマイケルの身軽さを思い出して少しだけ複雑な表情になった。


「……田舎の男爵家出身だが山育ちで殆ど平民のような暮らしだったとは聞いていたが、マイケルがあんなにも身軽だったとはな……」

「えぇ、私も大変驚きました」


 ちなみにマイケルは騎士団員達と一緒に宿舎に戻っている。

 まだ見習い故に簡単な訓練しか行っておらず、彼の身体能力の高さを誰も知らなかったのが今回は良い方に転んだと言うべきか。

 マイケルも一時は薬で眠らされていたというので、念の為、宿舎に戻ったら医療棟で診察を受けるように伝えたが、あれだけ元気に動き回っていたのだからきっと問題はないだろう。

 次に何を話すべきか、そこで二人の言葉は途切れ、馬車の中に沈黙が訪れた。

 ウルスラは自分の覚えている限りの事は全て伝えてしまったし、既にアッシュフィールド邸にも遣いを出してある。


(他に、何かお伝えしていない事はあったかしら……)


 がらがらと馬車の車輪の音だけが聞こえる無言の車内で、何気なく視線を落としたウルスラは、膝の上で重ねた己の手が小さく震えている事に気が付いた。

 寒い訳ではない。倉庫に囚われている時だって手は震えていなかったはずだ。

 倉庫で助け出された時は立ち上がる際にベルナールの手を借りたが、それからはきちんと自分の足で立って駆け付けてくれた騎士団員に礼を言ったし、用意された馬車にだって自分で乗ったというのに、それが何故、今になって震えているのだろう。

 不思議に思いながら震え続ける己の手を見詰めていると、向かいから包まれるようにしてその手を握られた。


「ベルナール様……?」

「震えている。怖い目に遭わせてしまって、すまない」

「私は……」


 倉庫の中で、ウルスラは本当に恐怖など感じていなかった。

 ここから脱出しなければという焦り、易々と拐われてしまった事に対する悔しさ、マイケルを巻き込んでしまった罪悪感、夜会を主催してくれた伯爵達への謝罪の気持ち。

 それらは確かに己の胸にあったが、囚われた状況を恐ろしいとは感じていなかったように思う。

 硝子玉のような瞳でじっとベルナールを見詰め、ウルスラはシルクの手袋越しに感じる彼の体温にただただ戸惑っていた。


「私は……あの時、特に恐怖は感じておりませんでした」


 ぽつりとウルスラが呟く。

 あの倉庫で、混乱こそあれど自分は恐怖を感じなかった。

 ──でも、本当に?


(助けに来て下さったベルナール様が私の名前を呼んでくれた時、私は確かに安堵した。それは、つまり……)


 震える手を包んでくれるベルナールの大きな掌。

 その力強さと温かさに、ウルスラはそっと睫毛を伏せた。


「いえ、もしかしたら、自分では気付かなかっただけで、本当は怖かったのかもしれません……」


 ベルナールに手を握って貰うと心の奥が温まる気がする。

 けれど、流石に抱き締めてほしいと口に出すのは、例え婚約者相手でもはしたないだろうか。

 そう思案した次の瞬間、ウルスラは身を乗り出したベルナールに抱き締められていたので、彼女のそんな心配は杞憂に終わったのだった。


「守れなくてすまない」


 呟いたベルナールの声は少しだけ掠れ、今回の件を心の底から悔やんでいる事が察せられた。

 前にも馬車の中で抱き締められた事を思い出してほんの少し耳を赤く染めたウルスラは、目を閉じてベルナールを抱き締め返しながらふるりと首を振って言った。


「私も、ご心配をお掛けして申し訳ありません」


 ベルナールの逞しい胸に身を預け、すっと身体の力を抜く。

 鼻先をくすぐる彼の香水や体温を感じている内に、ウルスラは安堵や疲労からいつしかぐっすりと眠り込んでしまい、次に目が覚めた時はアッシュフィールド邸のベッドの中だった。


「まぁ……」


 見慣れた天井を見上げて、ウルスラは無表情のまま一度だけ瞬きをする。

 ベッドに入った記憶どころか、馬車を降りた記憶もなければ着替えた記憶すらない。

 きっと屋敷に到着してからの事は、全て父とベルナールが指示を出してくれたのだろう。

 たっぷり眠ったお陰で夜会の疲労はすっかり回復しているし、今この瞬間の目覚めも申し分ない。

 だが、あれだけ心配を掛けておきながら、一人だけさっさと寝入ってしまったというのは考えれば考えるほどやはり申し訳ない。

 そんな事を思っていると、不意にノックの音が聞こえ、入室の許可を出すのと同時に寝室のドアが開かれた。


「ベルナール様? どうして」

「伯爵に滞在の許可を頂いた。体調は?」

「そうでしたの。体調は全く問題ございません」

「それは良かった。ウルスラの顔を見るまではどうにも心配で……。レディの身支度を待たずに入室したと母に知れたら、きっと大目玉を喰らうだろうな」

「ではお義母様には秘密に致しましょう」


 聞けば既に昼過ぎだというが、簡素なシャツ姿のベルナールの顔にはまだ疲労の色が濃く残っている。

 もしかしたら、事件の事後処理などで彼は眠る暇がなかったのかもしれない。

 肩を竦め、昼食の席で待っていると言って退室したベルナールを視線で見送り、ウルスラは控えていた侍女に急いで身支度を命じたのだった。


「──お待たせ致しました」


 身支度を整えたウルスラは、食堂で心配そうな表情を浮かべた父と苦笑するベルナールに出迎えられて席についた。

 彼女の体調を心配してだろうか、昼食のメニューにしては消化の良い食べ物がいくつか並んでいる。屋敷の者にも今回の件は多少なりとも伝わっているらしい。

 色んな人に心配を掛けて申し訳なく思うが、その心配と気遣いをウルスラは心から嬉しく思った。


「お父様、ベルナール様。一つお願いがあるのですが……」


 昼餐が始まり、銀のフォークとナイフを手に好物でもあるチーズ入りのオムレツを優雅な手付きで切り分けながら、ウルスラは父のアッシュフィールド伯爵と己の婚約者に声を掛ける。


「──今回のバダンテール伯爵令嬢の一件、このウルスラに全てお任せ頂けませんか」


 そのまま挨拶でもするように、さらりと、けれど一切の反論は受け付けないという無言の圧力を込めた淡々とした声音で彼女は言った。

 それは、可愛らしく小鳥が囀り、雲一つ無い空に太陽が眩しく輝く、夜会明けの美しい午後の事だった。

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