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12.暗雲・前編

 ウルスラと共にホールと休憩用の控え室とを往復し、ダンスや挨拶、結婚式への出席伺いなど、その夜出来る全てをこなしてベルナールが一息ついたのは午前三時頃だった。

 もう夜会も終わりに差し掛かり、ホールにいるゲスト達もまばらである。

 夜会の主役はベルナールとウルスラだが、主催者はレインバード伯爵とアッシュフィールド伯爵になるので、ベルナールは実父と義父に後は任せて退席の許可を得ると、先に控え室に向かっているウルスラの後を追った。

 ウルスラは表情も顔色も変わらないというのに、今夜は夜会用の化粧まで施している。パッと見では、誰も彼女の疲労には気が付かないだろう。

 生真面目なウルスラはこの夜会の重要性を考え、例え疲れていたとしてもそれを口に出す事はせず、きっと敢えて無理をするだろう。出来るだけ早く休ませてやりたい。

 自分は最後の最後で話の長い相手に捕まって大分遅くなってしまったから、ウルスラを先に控え室に向かわせたのは正解だったなと廊下を歩くベルナールはタイを緩めながら思った。


「ウルスラ、少し良いだろうか」


 ウルスラの控え室のドアをノックし、応答を待つ。だが、中からは何の反応もない。


(疲れて寝てしまったのだろうか?)


 しかし、侍女とマイケルを付けていたから中にいる誰かは気付くはずだろう。

 不思議に思ってもう一度ノックをするが、相変わらず部屋の中からは誰の返事もなかった。


「失礼、開けるぞ」


 そして、不審に思ったベルナールが断りの言葉と共にドアを開けると、そこにはいるべき人間は一人もおらず、がらんとした空間だけが広がっていたのだった。


「……ウルスラ?」


 困惑を含んだベルナールの声が、静まり返る部屋にぽつりと落ちた。






 ──ひやりとした感触に、ウルスラは自身の意識が暗く深い場所からふっと浮上するのを感じた。


(いけない。私ったらうたた寝を……?)


 夜会で疲れていたからとはいえ、まだ父に退席の挨拶もしていないのにうたた寝だなんて。

 ウルスラは僅かに身じろいでゆるゆると目を開け、そこが何故だかひどく薄暗い場所である事に気付いてパチリと目を瞬かせた。


「ここは……」


 身体を起こしてよくよく辺りを見回せば、薄暗い中でもぼんやりと周りの様子が見えてくる。

 積み上げられた木箱。硝子の空き瓶。その他にもウルスラが初めて目にする物が幾つか。

 冷たく感じたのはどうやら地面に寝かされていた為らしい。

 まるで倉庫のような場所だと思った瞬間、ウルスラは自身に降り掛かった災難を思い出した。


(そうだわ。ベルナール様の傷口が開いて病院に運ばれたとメイドが呼びに来て、馬車の停車場まで行ったんだったわ。それで……バダンテール伯爵令嬢が……)


『まぁ、アッシュフィールド令嬢。婚約者様のところへ行かれるのでしょう? どうぞ、うちの馬車をお使いになって。私は他にも迎えを呼べるから』


 そう優雅に微笑むデルフィーヌの申し出に礼を言って、ウルスラはここまで着いてきてくれたマイケルを会場に戻す為に振り返り、そこで誰かに口許を布で覆われたのだ。

 鼻をついた薬の匂いに頭がくらりとして、助けを呼ぼうと咄嗟に辺りを見回したところで、そこにまだバダンテール伯爵令嬢が立っていることに気が付いた。

 レースの扇子で口許を隠したバダンテール伯爵令嬢は、拐かされるウルスラを見ても、驚くでもなくただ微笑んでいたのだ。

 そしてウルスラは、回想から意識を現実へと戻して、再度暗い倉庫の中を見回した。

 理由はわからないが、状況からしてこれがデルフィーヌの指示で行われた事であるのは明らかだ。

 それに思い返して見れば、あの時間に停車場に他に人がいなかったのもおかしい。きっと事前に何らかの方法で人払いがされていたのだろう。

 あの場では動転して疑いなく従ってしまったが、自分はあの時まず義父や義母に確認をしてから動くべきだった。


(全く、何たる無様……!)


 アッシュフィールドの娘がこんなにも容易く騙されて拐かされるなど、情けないにも程がある。

 ウルスラは情けなさと羞恥に震え頭を抱えたが、視線を落とした胸元に無くす事なくきちんと母のネックレスがあるのを見ると、落ち着く為に意識して大きく深呼吸をした。

 ──かくなる上は、事態がこれ以上悪化する前に何とか自力で戻ろう。

 ウルスラは覚悟を決めて顔を上げる。

 今頃、誰かが気付いて探し始めているかもしれないが、この場所に到達するまでに時間がかかる可能性が高い。

 同時に、全く気が付かれていない可能性もあるのだから、脱出の算段くらいはこちらでもつけておかねばならないだろう。


「しっかりするのよ。ウルスラ・アッシュフィールド」


 頬に手を当て、声に出せば幾らか気合も入った。

 幸い縄で縛られたりなどの拘束は無く、ドレスにも乱れたところは見受けられない。

 自分の身に、まだ本当の最悪な事態は訪れてはいないのだ。

 ならばまずやるべきは情報収集である。

 この場所について何とかもう少し情報が得られないだろうかとウルスラが立ち上がったその時、軋んだ音と共にドアが開いて誰かが中に入って来た。

 部屋を照らすランプの明かりが眩しくて反射的に目を細めたウルスラは、次に自分に掛けられた言葉にハッと顔を上げる。


「……あら、意外と目覚めるのが早かったわね」

「バダンテール令嬢……」


 物で溢れる倉庫の湿った空気の中に、ふわりと彼女の纏う百合の香りが漂った。


「これは一体どういう事でしょうか」


 ウルスラが問えば、デルフィーヌは楽しそうにくつくつと笑い声混じりに言う。


「あら、流石は氷の伯爵令嬢だわ。こんな時にもやっぱり顔色ひとつ変わらないのね」

「質問にお答えください。ここは何処ですか。どうして私はここにいるのです」


 重ねて問うウルスラに、デルフィーヌはチラリと背後へ視線を向けた。

 するとそれを合図に暗闇からぬうと大柄な男が現れ、何かを床におろして無言のまままた闇の中へと下がっていく。


「……マイケル様……?」


 それが目を閉じてぐったりとしているマイケルだと気付いた瞬間、ウルスラは弾かれたようにマイケルに近付いてまず脈と呼吸を確かめた。


(良かった、脈も呼吸もはっきりしている……。きっと私と同じように薬で眠らされたのだわ)


 その様子を見ていたデルフィーヌが、ふっと目を細めて口を開いた。


「何故こんな事をと、お訊ねでしたわね。簡単よ。私ね、あなたをレインバード家に嫁がせるわけにはいかないの」

「え……?」

「他の誰であっても構わないけれど、あなたはダメ。だからね、私、考えたのよ」


 暗闇の中でうっそりと微笑むデルフィーヌは、ランプのオレンジ色の灯りに照らされながら歌うように続ける。


「あなたは今からこの子と駆け落ちするのよ。船に乗って、遠い海の向こうへ。そして二度と帰ってこないの。相手が消えてしまえば結婚だって出来ないものね。あとは私からレインバード伯爵夫人に誰かしら未婚の令嬢を紹介しておけば良いだけの事」


 令嬢の口から語られる内容はウルスラの疑問を解決するものではなく、ウルスラの胸の中には困惑ばかりが募っていく。


「あの、仰っている意味が……」

「……事実はどうであれ、男女で消えたのなら駆け落ちとして処理するのは難しい事ではないわ。そうでしょう。ウルスラ・アッシュフィールド」


 その髪の色と同じように冷たい鉄色の声音に、ウルスラは思わず半歩後退りデルフィーヌを見詰めた。

 一体、この令嬢は何を言っているのだろうか。

 疑問が胸に溢れて、その内破裂してしまいそうだ。

 少なくともバダンテール伯爵令嬢にとってウルスラは目障りな存在で、ベルナールとの婚姻を良く思っていない事だけははっきりとわかった。

 しかし彼女の生家はレインバード伯爵家やアッシュフィールド伯爵家と敵対関係にある訳でもなく、彼女自身、嫁ぎ先は公爵家で婚約者はその長男であるから結婚後の家柄は王族に続くものとなる。

 わざわざこのような事件を起こす必要など欠片もないはずだ。

 デルフィーヌがベルナールへ恋慕の情を抱いていたから、という可能性もあるが、それだとウルスラ以外なら結婚相手は誰でも構わないという彼女の発言と矛盾する。


(ダメだわ。頭がくらくらして上手くものを考えられない)


 足元がふらつきそうになるのを必死に堪え、ウルスラはピンと背筋を伸ばした。

 いつ如何なる時であれ、己は伯爵令嬢として、そして何よりベルナール・レインバードの婚約者として恥ずべき姿を晒せはしない。

 その矜持を胸に、ウルスラは真っ直ぐにデルフィーヌを見据えた。


「デルフィーヌ・バダンテール伯爵令嬢。私達を今すぐ解放なさい。今ならまだ不問に出来ます」


 ──だが、デルフィーヌの態度もまた頑なだった。


「……夜明けの頃には船が着くわ。このような場所で申し訳ありませんけれど、それまでここでお寛ぎくださいませね」


 暴力こそなかったが、彼女はウルスラの言葉に一切耳を貸す事なく踵を返した。

 扉がバタンと閉じられる音に続いて鍵が閉められる音が響き、令嬢達の足音が遠退くと倉庫の中には静寂だけが残った。


(夜明けの頃には……? つまり、夜明けまでに逃げ果せなければ、私とマイケル様は船で国外に連れ出されてしまうという事? そうなったら簡単に戻る事は出来なくなる。あぁ、どうしたら……。落ち着いて、落ち着いて考えるのよ)


 深呼吸を更に三回。

 ウルスラはぐるぐると倉庫内を歩いて歩数から倉庫のおおよその広さを割り出すと、倉庫内に僅かな明かりを届ける高窓を見上げ、何とかしてあの窓から周りの様子を伺えないだろうかと考えた。


(船というくらいなのだから、ここはきっと港近くのはず。この倉庫の広さと煉瓦造りの壁からして港の倉庫街かしら? でも倉庫街は広い上に人気が無いから、叫んだところで外には聞こえないでしょうね。梯子は無さそうだけど、木箱を重ねたらあそこまで登って外の様子を見る事が出来るかしら……)


 幸い木箱は倉庫内に何個もある。それを移動出来れば、それを足場にして窓の位置までいけそうだ。

 ウルスラは頑丈そうな木箱を選び、中身が空なのを確認すると全力で押してみた。


「……っ!」


 だが、木箱は微かに軋んだ音を立てただけで全く動く様子がない。

 一旦手を離して、ウルスラははてと首を傾げた。


「この木箱は空のはずなのに……」


 頑丈そうだから重量はあるだろうが、まさかこうも全く動かないだなんて。

 どこか地面に引っ掛かっているのかと確認してみるが、特に突起のようなものは確認出来なかった。

 そこでウルスラは、もっとも単純かつ根本的な問題に思い至った。


「……もしや、私の腕力ではこの木箱一つ動かせない……?」


 この時のウルスラは当然いつも通りの無表情であったが、親しい者が聞けば、その声に思わぬ己の非力さを知った驚きと狼狽が込められていた事がわかっただろう。


(これでは外の様子もわからないわ。どうしましょう)


 こうしている間にも夜明けは近付いている。

 窓から外さえ見られたら夜明けまでの時間も割り出せるというのに、このままではそれもままならない。

 落ち着いて何か方法を考えなければと、ウルスラは母に縋るかのように無意識にネックレスに手を伸ばした。

 その時、うぅんと小さな声がしてマイケルがもぞりと動いた。


「んん、あれ、今何時……?」


 ふにゃふにゃした寝ぼけ声を上げて目を擦りながら上体を起こしたマイケルは、近くに立つウルスラを見上げて数秒無言になると、ハッと目を見開いた。


「あっ! あの、奥様、ご無事ですか⁉︎ ここ何だかすごく暗いですけど、も、もしかして僕達……」

「えぇ、連れ去られた上に監禁されています。巻き込んでしまったこと、心よりお詫び申し上げます」


 薄らと状況を理解し始めたらしいマイケルに向かってウルスラは深々と頭を下げる。

 マイケルがウルスラの側にいたから、デルフィーヌに目をつけられてしまったのだ。

 ベルナールが可愛がっている後輩を危険な目に遭わせてしまったという罪悪感に思わず目を伏せたウルスラだったが、マイケルは勢い良く立ち上がるとぶんぶんと頭を振った。


「いいえ! 僕は巻き込まれただなんて思ってません。むしろ、お側にいたのにちゃんとお守り出来なくて、僕の方が謝らなくちゃいけないです!」

「……マイケル様は良い子ですね……」


 あまりにも素直で健気なマイケルに、ウルスラは思わず以前にベルナールがそうしていたようにマイケルの頭をそっと撫でた。

 手袋越しでもその金髪のふわふわ加減が伝わる事に微かな感動を覚えたが、マイケルが恥ずかしそうに目を伏せているのを見ると何事もなかったように手を離して小さく咳払いをした。今のは、伯爵令嬢として少しはしたなかったかもしれない。

 気を取り直してウルスラはマイケルに簡単に状況を説明する。


「……さて、ここはおそらく港の倉庫街だと思われますが、この場所を特定して助けに来るのは難しいでしょうし、そもそも皆様には私達が誘拐された事がまだ伝わっていない可能性もあります。私達は何とか自力で此処から脱出する術を考えねばなりません」

「えぇえ、そんなぁ。でもここ扉は一つだし、絶対鍵が掛かってますよね……?」

「施錠される音がしましたから間違い無く鍵は掛かっているはずです。そうですね、倉庫街なら南京錠でしょうか。せめて窓から逃げ出せたら良かったのですが……」


 言いながらウルスラが高窓を見上げれば、自然とマイケルの視線もそちらに向く。

 そしてマイケルはあっと小さく叫んだ。


「何だ、窓があるじゃないですか。あの窓は内鍵みたいだから、こっちからでも開きますね!」

「でもあんなに高い場所にあって……」

「あのくらいの高さ、何てことないですよ。僕、木登りは得意ですし、崖に生えたキノコだって採れるんですから安心してお任せ下さい!」


 マイケルはウルスラにニッコリと笑いかけ、軽く準備運動をするや否や、するすると柱や煉瓦の凹凸を使って壁を登り始めた。

 あっという間に窓に辿り着き、錆び付いた内鍵を苦労して解錠したマイケルは窓を開けてそこから頭を出すと外の様子を窺った。

 ウルスラはマイケルが転げ落ちてしまわないか気が気でなかったが、マイケルはしばらく外の様子を伺った後、危なげない動作でまた地面に戻ってきて言った。


「奥様。ここは倉庫街東地区の端です。水平線が明るくなっていたので太陽の方向がわかりましたし、灯台の位置と見えた大きさからして場所は間違いないと思います。少し前にこの辺の巡回に同行させて貰ったから、この辺の地図は全部頭に入っているんです」

「全部、ですか」

「はい! 僕はすごーく田舎の出身なので、都会で迷うといけないでしょう? だから王都の地図は全部暗記してあるんです。倉庫街の詳細地図も、覚えておいて良かったです」


 ウルスラはお役に立てましたかと屈託無く笑いながら話すマイケルをじっと見詰め、それは普通やろうと思ってもなかなか出来ない事であるのだと伝えた方が良いのか少しだけ迷って止めた。

 それが特殊な技能であると伝えると、彼の場合、変に意識して萎縮してしまうような気がしたからだ。

 とにかくこれで場所はわかった。

 倉庫街東地区といえば、貴族家が管理する倉庫が立ち並ぶエリアである。

 なるほど、それであれば此処はおそらくバダンテール伯爵家所有の倉庫の一つなのだろう。

 拘束されなかったのも、貴族所有の倉庫なら例え叫んだとしても誰も立ち入る事ができないからだ。

 ウルスラは、マイケルの両肩に手を置いて静かに問い掛けた。


「マイケル様。あの窓から脱出して助けを呼びに行く事は出来ますか?」

「僕一人でですか? そんな、奥様を置いてなんて」

「出来るか出来ないかで答えて下さい」

「で、出来ます。そんな高くないし、ここから王宮までなら近道もわかります」

「では行ってください。そして騎士団にこの事を伝え、救助を寄越して下さい。夜明けまでもう時間がありません。さぁ、早く行って」


 泣きそうな顔でウルスラを見詰めていたマイケルは、ぎゅっと目を瞑るときつく唇を噛んで頷いた。

 そして再び壁をよじ登って窓を開き、外へ出ようとしてぎくりと動きを止めた。


「マイケル様?」


 不審に思ってウルスラが名を呼ぶと、マイケルは慌てた様子でこちらに戻り、ウルスラを木箱の陰に押し込んで、自身は近くに落ちていた空き瓶を拾って木刀でも握るかのようにドアに向かってそれを構えた。


「奥様、誰かこちらに向かってます!」

「何ですって……」


 マイケルの言葉にウルスラがハッと窓を見上げれば、そこから見える空は白み、夜明けが来た事を告げていた。


(──間に合わなかった……!)


 船に乗せられる前に、何としてでもマイケルだけは逃さなければ。

 ウルスラがそう思った時、外から大きな音がしてドアが悲鳴を上げるように軋んだ音を立てた。

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