11.お披露目の夜
人々の拍手に迎えられながらホールに入場したベルナールとウルスラは、まず当代レインバード伯爵とアッシュフィールド伯爵によって皆に紹介された。
怪我によって騎士団を引退し次期当主となったベルナールはまだしも、婚約破棄の経歴があるウルスラについては社交界でも様々な噂が飛び交っており、それはそのまま家門の評価へと繋がることとなる。
それらの噂を払拭するまでとはいかなくとも、なるべく良いものへと書き換える事もまたこの夜会の重要な目的だった。
伯爵達は両家の仲が良好であり、この婚姻が結ばれるべくして結ばれたものである事を夜会に集まった人々へアピールし、夜会の主役である二人も親密さを周りへ印象付けなければならない。
お祝いの言葉を掛けてくれるゲスト達に笑顔で対応しつつ、こちらから挨拶回りにも出るとなると、夜会という華やかなイメージからは程遠いひたすら慌ただしい時間ばかりが過ぎていく。
その間、ベルナールもウルスラも一瞬たりとも気を抜くことは許されず、ピンと緊張の糸が張り続けていたが、挨拶が一通り済んでしまえば幾らか余裕も生まれてきた。
「兄上。そろそろダンスを」
「あぁ、わかった。今行く」
ホール内に流れる音楽が変わり、それを合図にして人々がダンスフロアへと集まり始める。
勿論、この夜会で最初に踊るのは主役の二人だ。
つまり二人のダンスに、この場に集まった全員の視線が注がれるのである。
「ウルスラ、疲れていないか」
「問題ございません」
ベルナールのエスコートでフロアの中央へと進み出たウルスラは、全く変わる事のない表情と淡々とした声音で答え、まるでダンス教本にあるお手本のように背筋を伸ばした。
長身のベルナールと並ぶとやはり身長差はあるが、ウルスラも女性の中では比較的背の高い方であり今夜はヒールも履いているので、踊りにくい程の身長差にはなっていない。
むしろダンスの為に密着し、タイミングを合わせようと互いに見つめ合う二人の姿は、一枚の美しい絵画のようにさえ見えた。
その立ち姿を見た何人かが感嘆の吐息を漏らすのと同時に音楽が始まり、完璧なタイミングでベルナールとウルスラは最初のステップを踏みだす。
元々体力があり、体幹のしっかりしているベルナールのリードはウルスラにとって安心して身を任せられるものであった。ただ、着飾ったベルナールがあまりにも眩しくて、あまり長く見詰められない事だけが問題だった。
ベルナールも、己に呼吸を合わせてくれるウルスラのステップはとても踊りやすかったが、いつもよりも華やかな化粧を施されたウルスラの女神像にも似た美しく静謐さを湛えた表情や、真珠の粉を振りかけて時折シャンデリアの光に煌めく栗色の髪にいつになく心臓が強く拍動しているのを感じていた。
色々な事情が重なり、婚約してから二人で出席する初めての正式な夜会。
それは、二人が初めて特別に着飾ったパートナーの夜会服姿を直視する場だった。
夜会用のドレスは昼のドレスとは趣も何もかもが異なる。それ故に、二人がいつもとは雰囲気の違うパートナーに緊張してしまうのも無理からぬ事であった。
お披露目としての二人だけの最初のダンスを終え、その次にゲストを交えたカドリルを続けて踊り、ベルナールとウルスラはゲストへ一礼をしてホールから一旦退出した。
この後、少しだけ二人は休憩する事が許されている。
夜会が開始してから止まることのなかった挨拶、そして二曲続けてのダンスに、流石に二人とも少し息が上がっていた。
「ウルスラ、何か飲み物を持ってこさせよう。それともアイスクリームの方が良いだろうか。母がストロベリーアイスを用意していたようだが」
「お気遣いありがとう存じます。では、飲み物をお願い致します。出来れば冷たいものを」
ベルナールとウルスラは控え室となる小部屋で再度礼服やドレス、そして髪型の乱れを整え、飲み物を飲んで一息つくと、戦場にでも向かうかのような覚悟のある表情で再びホールへと戻った。
「ここからはお互い別行動になるが、何かあればすぐに合図を。何処にいても駆け付ける」
「かしこまりました」
ここから、ベルナールは紳士達の、ウルスラは淑女達の集まりに顔を出して主催として皆をもてなす時間になる。
あまり乗り気にはなれないが、これも貴族の義務と割り切って二人はそれぞれの戦場へと向かうのだった。
「皆様、お楽しみ頂けておりますか」
「あら! アッシュフィールド令嬢。今夜はお招きありがとう」
「素敵な婚約者様ねぇ。羨ましいですわ」
アンジェレッタの助けを借りて一通り貴族夫人達と交流した後、一人で令嬢達のグループへ挨拶に向かうと、令嬢達はにわかに騒がしくなってウルスラを取り囲んだ。
「あの方、元々騎士団にいらしたのよね。どんなきっかけでご婚約を? ほら、アッシュフィールド令嬢には特別なご事情がおありでしたでしょ」
「私達、アッシュフィールド伯爵家のあの話を聞いてとっても心配しておりましたのよ。ねぇ、皆様」
「そうね。その歳で婚約破棄なさるだなんて勇気のあるご決断、私達にはとても出来ませんもの」
「ほんとよねぇ。早々に良い嫁ぎ先が見つかって本当に良かったです事」
「お茶会にもサロンにもいらっしゃらないのに、まるで魔法のよう。妹さんと同じ魔法かしら!」
くすくすと零れる笑い声。
それらはどれも上品にウルスラの婚約破棄を嘲り、婚約破棄から再婚約まで間がなかった事も何か『特別な手段』を用いたのだろうと蔑むものであった。
だが、この程度は挨拶代わりである。
ウルスラはいつも通り、表情を変えず、優雅にドレスの裾を摘み軽く礼をしながら言った。
「皆様にご心配をお掛けした事、心からお詫び申し上げます。ですが、この通り素晴らしいご縁を頂けましたのは、天の思し召しと皆様のお心遣いのおかげでしょう。どうぞ引き続き夜会をお楽しみくださいまし」
氷の伯爵令嬢の二つ名に恥じない、温度のない淡々とした声と表情に、相対する令嬢達の表情も強張ったが、その中でリーダー格と思われる一人は負けじと言葉を重ねた。
「どうもありがとう。存分に楽しませて頂きますわね。でも私アッシュフィールド令嬢が心配よ。この婚約もどうせすぐ白紙になってしまうのではないかしらって」
流石に令嬢のその言葉は捨て置けず、ウルスラが顔を上げる。
「失礼。今、何とおっしゃいました?」
「何って、今回の婚約も乗り気ではないのかと心配しております、と申し上げたの。だってあなた、ご自分の婚約報告の夜会なのにちっとも楽しそうではないじゃない」
「ちょっと。おやめなさいよ。この方が楽しそうだった事なんて今まで一度もないじゃないの」
「あら、そうだったわね。ごめん遊ばせ! ふふふ」
楽しそうだった事がない、というのはウルスラがいつも無表情である事を指している。
これについては事実であるので、ウルスラは何も言う事は出来なかった。
だが、先程の自分が婚約に乗り気でないというのは否定したい。
ウルスラが反論の為に口を開いたその時、凛とした声が令嬢達に掛けられた。
「──ご機嫌よう、皆様」
声を掛けられて反射的にその場の令嬢達が視線を動かせば、そこには従僕を連れた一人の令嬢が立っていた。
「バダンテール伯爵令嬢……」
鉄色の髪を複雑かつ洗練された編み込みで結い上げ、動く度にサラリと揺れる軽く柔らかな素材のドレスを身に纏った伯爵令嬢は、扇子で口許を覆って深い青色の目を細めた。
「皆様とても楽しそうで結構です事。ねぇ、でも少しお声が大きいみたい。……まるで春先の猫のよう」
「何ですって⁉︎」
バダンテール伯爵令嬢に盛りのついた猫のようだと揶揄され、先程まで嬉々としてウルスラの婚約破棄について揶揄する言葉を投げていた令嬢は、カッと怒りに頬を染めた。
「あらあら。そのように簡単に声を荒げるだなんて、アッシュフィールド令嬢も困ってしまうわ。ゲストの品格って、主催者の評価になるでしょう?」
「あなたこそ、よくもそんな抜け抜けと……」
怒りに唇を震わせる令嬢の様子にウルスラは場の収拾をと焦るが、その前にバダンテール伯爵令嬢がパチンと音を立てて扇子を閉じた。
「あちらでアイスクリームでも召し上がって頭を冷やしてくる事ね。ここは趣味の女性サロンではなく、レインバード伯爵家とアッシュフィールド伯爵家の夜会よ。それに、あなたのお父様の事業について、私はいつでも出資者である私のお祖父様にお手紙を書く事が出来てよ?」
「……ッ! 失礼するわ!」
「あっ、待って、私も行くわ」
リーダー格の令嬢が苛立ちを多分に含んだ足取りで踵を返すと、他の令嬢達もそれを追いかけていってしまった。
その場に残されたウルスラは、傍らに立ち嫣然と微笑むバダンテール伯爵令嬢ことデルフィーヌ・バダンテールにそっと声を掛ける。
「あの、バダンテール令嬢」
「出過ぎた真似をしてごめんなさいね。見ていられなくって」
「いえ、ご助力ありがとう存じます。こちらこそ、こういったやり取りに不慣れでお見苦しいところをお見せしました。申し訳ございません」
「よろしいのよ。あと、お礼ならどうぞこちらの子に」
「え?」
令嬢に言われて視線を動かしたウルスラは、その先に見たものにパチリと目を瞬かせた。
「マイケル様……?」
騎士の正装に似た礼服に、見習いを示す腕章をつけたマイケルが所在なさげにデルフィーヌの後ろに立っていた。
「どうして、ここに」
「あの、今夜は僕達の隊もここの警護にあたっているんです。僕は小隊長様から給仕手伝いをしながら作法の勉強をしてくるようにと命じられました。あっ、先程、小伯爵様にもご挨拶させて頂きました!」
「そうでしたか」
見たところ、確かに騎士団の騎士見習いというよりは従僕見習いのように見えるが、兎にも角にもマイケルの元気そうな様子にウルスラは内心でホッと胸を撫で下ろした。
「私、ご挨拶したくてアッシュフィールド令嬢を一緒に探して頂いていたの。そうしたらあなたは取り込み中のようだし、こちらの方は、あなたをどうお助けしたら良いかと顔を青くしているしで、どうにも気になってしまったのよね」
微笑むデルフィーヌからはふわりと上品な百合の香水の匂いがした。
令嬢はウルスラに改めて挨拶のための礼をすると、婚約祝いの言葉をウルスラに送り、そして最後にこう付け足した。
「私ももう少ししたら、レインバード領の近くへ嫁ぐ事になっているの」
その言葉にウルスラは彼女の婚約者を思い出した。
確か、美術や音楽に精通しており、何人も画家や音楽家を支援している公爵家の長男だ。名前はジュリアン・ティトルーズ。
今夜もこの夜会に参加していて、先程ベルナールと共に挨拶したうちの一人である。
近くの領にデルフィーヌのような頼れる方が嫁がれるなんてと、ウルスラは高揚し、珍しく自分から交流に踏み出した。
「では領地に入りましたら是非カードを送らせてください」
「ありがとう。私もカードを送りますから、どうぞ遊びにいらしてね」
そしてデルフィーヌは婚約者の元へ戻ると言って去っていき、マイケルも慌てて仕事に戻っていった。
二人を見送り、ウルスラも気を取り直して他の令嬢達への挨拶回りに精を出す。
どうやら先程の一連の流れは周りにも見られていたらしく、その時のデルフィーヌのおかげなのか、その夜ウルスラに対し揶揄するような事を言うものはもう誰一人として現れなかった。
「──ウルスラ!」
「ベルナール様」
ホールで一通りの接待を終えた頃、同じく役目を果たしたベルナールもシャンパングラスを手に早足でウルスラへと近付いてきた。
手にしたグラスのうち、一つをウルスラに差し出し、ウルスラがグラスを受け取ったのを確認してから、喉が渇いていたのかベルナールはぐっと一気にグラスを呷る。
渡されたグラスはよく冷えたシャンパンのようだ。
ウルスラもシャンパンを一口飲んで、喉を滑り落ちる冷たさに、ほうと息を吐いた。
「母上達は軽食を済ませに行っている。私はこの後の段取りについてセレスタンと確認があるから、君は控え室で少し休んでいると良い」
「えぇ。そうさせて頂きます」
主催の控え室はゲスト用のクロークルームとは別フロアなので、完全なプライベート空間になる。
ピーク時間は過ぎたとはいえ、夜会は場合によっては明け方まで続く事もある。体力を温存しておくに越したことはない。
普段積極的に社交活動をする事がなかったウルスラは、長時間人混みの中にいて正直疲れていたので、ベルナールの申し出をありがたく受け入れ、彼が呼んでくれたマイケルに付き添われて控え室へと向かった。
まだまだ着飾った高貴な人々で賑わうホールの片隅で、控え室に続く廊下へ歩いて行くウルスラの背中を見詰める視線が一つ。
「──よしなに」
そして囁くように落とされた一言を合図に、数人の男達がサッと影のように人混みに紛れて消えていった。
それは夜会の賑やかな空気の中ではあまりにも一瞬の事で、誰の目に留まる事もなかった。