10.義母と娘と
レインバード伯爵夫人アンジェレッタは、社交界において『煌めくエメラルド』と称される程に美しく、貴婦人達の中心的人物である。
男性相手にも物怖じせず己の考えを発言する胆力に加え、一晩中踊ってもなお楽しげに微笑むという衰え知らずの無尽蔵の体力。
音楽や美術だけに留まらず文学や経済学にも精通しており、また、ファッションでも彼女が流行の先駆けとなる事が多々あった。
それには彼女自身の血の滲むような、過酷ですらある個人的な努力も勿論あったが、アンジェレッタは極めて淑女らしくその努力を微塵も感じさせはしなかった。
伯爵位筆頭家門、レインバード伯爵家の女主人。王国東部きっての女傑。
アンジェレッタ・レインバードはそういう女性であった。
──だが、その東の女傑アンジェレッタは、今、非常に困っていた。
「このお茶は私が気に入っているものなのだけど、お口に合って?」
「はい。とても美味しゅうございます」
訪れる無言の時間。
「この温室には珍しいお花もあるの。後で案内しましょうね」
「ありがとう存じます、お義母様」
そして再び訪れる無言の時間。
こんな事をもう何度繰り返しただろうか。もうそろそろ話のネタも尽きそうである。
デザイン画を確認していた二人は、休憩にと温室の中に設けられたテーブルに向かい合って座り、合間に度々無言の時間を挟みながらお茶の時間を過ごしていた。
(あぁあ、どうしましょう。わたくし、この子の好きなものをもっと勉強しておくんだったわ! 前にベルナールが言っていた薔薇はもう季節を過ぎてしまったし、乗馬も此処では出来ないわね。他に……他にこの子は何が好きなのかしら? もっとベルナールを問い詰めておけば良かった)
無表情に淡々と、けれどしっかりと受け答えしてくれるウルスラだったが、いかんせん返答が簡潔すぎて会話が続かない。
社交界ではお喋りも技能の一つなので、このような沈黙は珍しいのだ。
アンジェレッタ自身、人と話す事が好きな性格であった為、ウルスラのようなタイプはあまり馴染みがない。
これまではあまり長い時間共にいる事はなかったし、いつもベルナールが一緒だったので話のネタには困らなかった。
さて、こんな時はどうしたら良いのか。
アンジェレッタは未来の義娘との楽しい会話の為に、これまでの経験を総動員して必死に突破口を探りはじめた。
(何かあるはずだわ。さぁ、アンジェレッタ、思い出すのよ。ベルナールは何と言っていたかしら。うちの庭の薔薇を見に来た事と、遠乗りに行けるほど乗馬が堪能である事とお料理もする事と……そう、領地経営についての指導が非常にわかりやすかったとか。じゃなくて! そういう事ではないのよ、でも確か……確かまだ他にあったはずよ)
──表情はあまり動かないが、照れると耳が赤くなって可愛い。
ベルナールに初対面時の感想を根掘り葉掘り聞き出した際の記憶を脳裏に呼び起こし、アンジェレッタの頭に一筋の光明が差した。
(そうだわ。確かこの子は感情は豊かだけれど表情だけが動かないのだと言っていたわね。いっそベルナールの話題を振って……あら?)
そしてちらと視線を動かしたアンジェレッタは、ウルスラの耳がほのかに赤く染まっているのを見てパチリと目を瞬かせた。
ピンと背筋を伸ばし、何処までも完璧な所作でティーカップを口許に運ぶ姿に、薄紅に染まった耳は何処かアンバランスに見えた。
(わたくし相手に照れるような事もないでしょうし、話の内容的にそんなきっかけもないわね。だとすると、これはもしかして……)
アンジェレッタは音を立てずにカップをソーサーに置き、そっとウルスラに問い掛けた。
「アッシュフィールド令嬢。もしかして、緊張しているのかしら?」
その問いにウルスラはぴくりと肩を揺らし、ゆるゆるとアンジェレッタを見詰め返した。
一見、無表情にジッと見詰めているだけに思えるウルスラの表情も、糸口さえ掴めれば社交界で鍛え上げ、百戦錬磨のアンジェレッタが読み解く事は容易い。
「何か、粗相がございましたでしょうか」
全く焦りを感じない淡々としたウルスラの声音。
しかし、アンジェレッタはその言葉の裏に確かな動揺を感じ取った。それは緊張を指摘された事が理由と見て間違いないだろう。
アンジェレッタはウルスラを安心させるように柔らかく微笑んで言った。
「いいえ。貴女のマナーは完璧だわ。そうね、知っているからわかったのよ」
そして、秘密を打ち明けるようにウルスラの耳もとに唇を寄せて囁く。
「貴女、自分で思っているよりも実はわかりやすいのではないかしら。可愛いわね。息子もそう言っていなかった?」
「え、いえ、ベルナール様は何も……」
言葉少なに答えながら俯くウルスラの耳はどんどん赤くなっていく。
これでは氷の令嬢どころか、このままだと茹だった令嬢になりそうだ。
だが、これで全く表情や声音に変化はないのだから、むしろ面白いものだわとアンジェレッタは思った。
同時に、ウルスラがベルナールへ向ける愛情を感じて更に笑みを深めた。
朝帰りをしておきながら、婚前を理由に口付けの一つもまともに出来ない息子を心配していたが、この二人はきっとこれで良いのだろう。
見ている側が焦ったくとも、確実に一歩ずつ前に進んでいるのだから。
安堵と喜びから、ほうと息を吐き、伯爵夫人はまるで少女のように目を煌めかせた。
そうだ。自分はこの娘と令嬢としてではなく、娘として仲良くなりたいのだ。社交場のような会話などしなくても構わない。
「……わたくしね、ずっと娘が欲しかったの。だから、貴女のような可愛らしいお嬢さんが息子のお嫁に来てくれる事が本当に嬉しいのよ。息子は息子で可愛いものだけど、女の子とは可愛いの種類が違うのだもの。ねぇ、わたくし、貴女ともっと仲良くなりたいの」
「仲良く……?」
「えぇ。好きなお菓子はなぁに? 贔屓にしている仕立て屋は? 読書が趣味と聞いたけれど、どんなお話がお好きなのかしら。あと、そうね。今度一緒にお買い物や観劇にも行きたいわね。ウルスラさんは何が楽しいと思う?」
にこにことアンジェレッタに問われ、ウルスラは少しだけ口籠もり、そして今度はウルスラの方からアンジェレッタに耳打ちした。
「──私はこうしてお義母様とドレスを選ぶだけでもとても楽しいです」
その言葉にアンジェレッタの我慢はついに限界に達し、手にしたレースの扇子をぽいと放り出すと強くウルスラを抱き締めた。
「あぁ、やっぱり可愛いわ!」
「お、お義母様?」
「わたくしにとって王国一可愛いお嫁さんだもの。全力で夜会のドレスを選びましょうね! 何ならデザイン画だけじゃなくてデザイナーも呼んでしまいましょうか? 貴女のお母様の分まで、わたくしがきっちりと後見人としてお世話しますから安心して頂戴ね」
ぎゅうぎゅうと抱き締められて困惑に硬直したウルスラだったが、アンジェレッタから与えられる溢れんばかりの愛情に触れると、自らもおずおずと手を伸ばして義母をそっと抱き締め返した。
一方、二人の様子が心配で後継者教育を抜け出し様子を見に来ていたベルナールは、こっそりと物陰から抱き合う二人を見て、平和そうで何よりだがどうしてこうなったんだろうと真顔で首を傾げていたが、追跡してきたセレスタンに平和そうなら良いでしょうよと敢えなく連行されていったのだった。
そしてウルスラはセレスタンの予想に反し、乗馬と領内視察で培った持ち前の体力と気力でアンジェレッタのドレス選びを乗り切り、一週間ほど時間を掛けて念入りにドレスや靴、アクセサリーを選び、来たる夜会の日に備えた。
婚約報告の夜会の会場となるのは王宮敷地内にあるホールである。
建物自体は本宮とは異なる離れの建物となるが、それでも貴族のうち限られた家門しか貸切を許されない格式あるその場で、レインバード家とアッシュフィールド家の若き二人の婚約を正式かつ大々的に発表するのだ。
「──さぁ、ウルスラさん。仕上げを致しましょう」
婦人用の支度部屋で、この夜の為に仕立てた美しく煌びやかなドレスに身を包んだウルスラの背後に周り、アンジェレッタはそっとウルスラの細い首にネックレスを着けた。
繊細なチェーンと細緻な彫刻の施されたネックレスは、華美ではないが存在感があり、ウルスラが選んだベルナールの瞳と同じ新緑色のドレスによく似合った。
「これはわたくしが貴女のお母様、ディアーナ様からお預かりしたものよ。ディアーナ様が嫁がれた時に着けていらしたのですって。自分は参加出来ないからこれを代わりにと、手紙と一緒にわたくしに預けて下さったの」
「お母様が……」
「夜会の前に泣いてしまうといけないから、手紙は後でお渡しするわ。いいこと? 今夜はわたくしがこれを着けて差し上げるけれど、結婚式の時はディアーナ様に着けて頂くのよ?」
しゃらりと胸元でネックレスが光る。
シルクの長手袋をした指先でネックレスの飾りを撫でていたウルスラは、しばしの沈黙の後にアンジェレッタを振り返ってそろりと手を伸ばした。
「……お義母様。抱き締めてくださいますか」
「あらあら、うふふ。えぇ、よろしくてよ。でもドレスに白粉がつかないように気を付けてね」
溢れる感情が喉につかえて言葉にならない。
ウルスラのそんな心情を察したのか、アンジェレッタはぎゅうと彼女を抱き締め、宥めるようにその背中を軽く撫でた。
ここに母親がいたらどんなに良かったか。
けれど彼女は身重で具合の悪い妹に付き添う事を選んだ。
妹はそこまで身体が強くないので、同じく身体が丈夫でないディアーナは誰よりも妹の身を案じ、家門の体裁より大切な娘の身体を優先したのだと説明したウルスラは、自身の婚約報告の夜会に母が不参加であるというのにその母の決断をどこか誇らしげに語っていた。
寂しくはあるが悲しくはないのだと言っていたウルスラがそれだけ母親に愛情注がれて育った事は明白で、同じだけの愛情をこの娘が持っている事もまた明白であるとアンジェレッタは強く感じていた。
この娘を氷の伯爵令嬢というのなら、それはどこまでも透明で美しい、清廉な心そのものを指すに違いないのだ。
義理の娘とはいえ、こんなに誇らしい事はない。
アンジェレッタは腕の中の娘を一度強く抱き締めて、そのこめかみに祝福のキスを送った。
「……母上、ウルスラ。支度の方はどうだろうか」
ノックと共に聞こえたベルナールの声に、アンジェレッタはハッと我にかえり、慌ててウルスラの髪やドレスの最終チェックをして笑顔で送り出す。
「ベルナール。しっかりエスコートして差し上げてね」
「勿論です。ウルスラ、大丈夫かい?」
「はい。問題ございません」
ドアの向こうに続く廊下。
ドレープのかかったカーテンで仕切られたその先にホールがある。
既にホールからはカーテン越しに音楽と共に人のざわめきが、そして彼らの興奮と好奇心で満ちた空気が伝わってくる。
アンジェレッタ達がホールに入ったのを確認し、ベルナールとウルスラは今夜の警備に配置された王宮騎士に先導されて廊下を歩き始めた。
夜会の為に前髪を撫で付け、その黒髪をヘイゼル色のリボンで結ったベルナールがひそりと呟く。
「……こういった夜会は久しぶりだな」
こくりと頷いてウルスラも同意を示した。
「私もです」
そして二人はドアの前で立ち止まり、お互いに視線を合わせてから音楽家達の奏でる音楽と共にホールへと入場した。
艶やかな床に煌びやかなシャンデリアの光が反射する。そんなフロアを彩る色とりどりのドレスを纏う淑女達。
まるで宝石箱のようなそのホールで、今、二人の為の夜会が幕を開けたのだった。