9.或る令嬢の告白
二人が初めて顔を合わせた場所であるアッシュフィールド邸のサロンで、ベルナールは少しの緊張を抱えながらウルスラの支度が終わるのを待っていた。
格式の高いドレスは着ているだけで疲れるものだ。長い時間話をするには向かない。
ベルナールもジャケットを脱ぎ、軽装として許される程度にタイを緩めている。
(女性のドレスは男にとっての鎧だと母が言っていたな。社交の場とは淑女の戦場であるとか何とか……)
着るにも脱ぐにも人の手を借りなければならないドレスは、見るからに重くて動きづらそうなのに、ウルスラはよくもあのように軽やかに歩いて見せるものだ。
辛そうな顔を見せないだけかもしれないと思うと少し複雑な気はするが、そこについてはこれから彼女が話してくれる内容で幾らか対策が立てられるだろう。
ノックの音が聞こえたのは、ベルナールがそんな事を考えていた時だった。
「お待たせ致しました」
ティーセットや軽食の載せられたワゴンを押す侍女らと共に、ウルスラがサロンへ入ってくる。
それをソファから立って出迎え、ベルナールはチラと彼女が連れてきた者達へと視線を向けた。
侍女が二人と護衛騎士が二人。
護衛騎士はウルスラの指示によって廊下側の開いたドアの左右に立ち、侍女達はお茶の支度を調えるとドアの前に椅子を置いてそこに座った。
ベルナール達のいるテーブルからは適度に距離がありつつも、何をしているかは目視出来る位置である。
先程ウルスラに伝えた事が過不足なく行われた事にベルナールは安堵し、そして感心した。
伯爵不在のこの屋敷で、彼女は令嬢ではなく女主人として全てを差配しているらしい。
次期当主として育てられただけあってか、全ての動きに無駄がない。今の自分では同じようにはいかないだろう。
それだけの純然たる差を感じて一瞬怯んだベルナールだったが、その差は追い付くべきものであるのだと自分を奮い立たせた。
そうしている内にウルスラはテーブルの支度が整ったのを確認し、ベルナールの向かいの席に座って、では始めましょうと告げた。
その言葉にベルナールは無意識に背筋を伸ばす。
「君の表情が変わらない事について、だったかな」
「はい。実際はとても単純な話なのですけれど、これについては誤解される事が実に多いのです。幼少期に虐待を受けたせいだとか、厳しい後継者教育によって感情を失っただとか……。そのような事実は一切ないのですが」
出だしから与えられる情報の密度が高過ぎて反応が追い付かないベルナールを余所に、ウルスラは小さく溜め息を吐いた。
「そういった事実がないのは喜ばしい事だと思うが」
「お気遣いありがとう存じます。けれど、社交界で飛び交う噂は時にベルナール様を惑わせるかもしれません。ですから、多少身内の恥を晒すような話にはなりますが、私の事については最初に本当の事を知っておいて頂きたいと思ったのです」
氷の令嬢の噂について、社交界で耳にした事もあれば母が聞いてきた話もある。
それらについては己の目で確かめれば良いと思っていたが、本人から聞けるのであればそれに越した事はない。
それに、自分達に足りないのは情報というより会話だと、先程の馬車での事で痛感していた。
内容はともあれ言葉を交わす事に慣れるのは大切だ。
「……伺おう」
ベルナールに促され、ウルスラはつうと視線を宙へ向ける。
それは何処か遠くを見るような仕草だった。
「──事の発端は、私が生まれる前まで遡ります……」
ウルスラが淡々と紡ぐ言葉を一言も取りこぼさないよう、ベルナールは彼女の話に静かに耳を傾けたのだった。
──曰く。特別な事由の必要もなく王家から女性が当主に立つ事を認められているアッシュフィールド伯爵家では、昔から女当主を推奨する傾向があった。
勿論、歴代当主の中には男性もいたが、初代アッシュフィールド女伯爵の功績にあやかり、女児が生まれたのならその子に当主教育を施し、年頃になれば他の家門から婿をとるというのが半ば習わしになっていたのである。
だが、現アッシュフィールド伯爵も前アッシュフィールド伯爵も男性である。
ウルスラの祖父にあたる前アッシュフィールド伯爵・ギルバートには女兄弟がいなかった。
その為、長男のギルバートが家督を相続し、彼が他の家門から娶った妻がアリッサだった。これは慣例通りであり、特におかしな事ではない。
しかし、夫がアッシュフィールド伯爵家当主だったからだろうか。
それとも生まれ育った家門でそう教育されていたのか。
嫁いで来た彼女は、アッシュフィールド家のしきたりに異を唱え、徹頭徹尾「男子が家督を相続するべし」と主張し、度々一族の者と口論になっていた。
現アッシュフィールド伯爵家当主・マクシミリアンには二人の姉がおり、順当に行けば長女が家門を継ぐはずだった。
しかしアリッサがそのような様子であったから、マクシミリアンの姉達はアリッサの頑なな反対により後継者教育を受ける事はなく、年頃になると他家に嫁に出される事となった。
そして姉達が嫁いでほんの数年後、ギルバートは馬車の事故により急逝し、マクシミリアンがアッシュフィールド伯爵を継いだのである。
「お祖父様が早くに亡くなり、父が家督を継ぐ事が内定した頃には父は既に母のディアーナと婚約しておりました。母はアッシュフィールド家と縁戚関係にある子爵家の生まれでしたから、考え方はそれでもアッシュフィールド寄りだったと思います」
ウルスラの語る内容に、ベルナールはこの後起こったであろう内容を薄らと察知して溜め息を吐いた。
「父が伯爵位を継いだ際、本来であれば母が屋敷の女主人となるはずでした。しかし祖母は屋敷の女主人としての実権を母に譲る事はなく、むしろ子爵家出身の母の教育不足を理由にアッシュフィールド家の女主人として君臨し続けたのです」
「それは……母君は大変な苦労をされただろうな……」
「えぇ。母は次第に本邸ではなく離れで過ごす事が多くなり、私を出産したのも離れでした」
名ばかりの伯爵夫人となったディアーナは社交活動などからも自然と遠のき、離れで生活するようになった。
アリッサはそれについて何も言う事はなく、じっと大人しくさえしていれば干渉もして来なかったので、屋敷の中に身の置き場所がないディアーナにとって、離れだけが心安らげる場所であったのだろう。
──だが、その場所に嵐が訪れた。
「第一子として生を受けた私が女児であった事で、祖母は何故男児を授かれなかったのかと母を強く責めたそうです」
「子供は天からの授かりもので、性別だってどうにかしようとしてできるものではないだろう……?」
まさかそのような事を言う人間が実際にいるのかとベルナールは驚いたが、実際にいたからこそウルスラはこの話をしているのだろう。
そんなアリッサだったが、女主人としての仕事は完璧であったという。
だからこそ父は妻と実母の関係にかなり悩み、色々と手を打ったが状況は改善しなかったのだと、ウルスラは侍女に温くなった紅茶を替えるよう指示をしながら頷いた。
「さようでございますね。けれど祖母は男児を産めないのは母体の問題だと連日離れに押しかけては何時間も母を責め……精神的に追い詰められた母は体調を崩して更に離れの奥に引きこもるようになったと聞いております。私は乳母に育てられ、三歳になるまで本邸には入ったこともありませんでした」
「まさかそれが……」
「あぁ、いえ。母が体調を崩してからは父が祖母を離れに入れないように手を尽くしてくれておりましたので、離れでの生活は特に問題ありませんでした」
「そ、そうか」
「ただ、母はいつも私に『静かにね』と……」
そう言ってウルスラは母の仕草を真似ているのか、口の前で人差し指を立てて見せた。
──社交活動に出る事もなく、日々ゆったりした生活を送る内にディアーナの体調は少しずつ回復し、庭の散歩も日課に出来るまでになった。
花の手入れや、趣味の刺繍などをしながら、時折庭でウルスラと遊んだり絵本を読んだりと母娘の毎日はただただ穏やかだった。
だが、ディアーナの心の中に巣食った恐怖が払拭される事はなく、彼女は何処にいても度々本邸の方を気にしては、事ある毎にウルスラに、静かに、大人しくしているようにと言い聞かせた。
「幼い頃の記憶ですから、かなり朧げではあるのですが、母が乳母に『ウルスラの声を聞きつけたあの人が私だけでなく娘にまで酷い言葉をぶつけないか、それだけが心配なのよ』と零していたのを覚えています。それで私は幼心に思ったのです。お母様が傷付く事のないよう、静かにひっそりと生きよう、と」
毎日隠れんぼをしているような感覚だったと言うウルスラは淹れ直した紅茶で喉を潤し、そして喋る事に少し疲れたのか深く息を吐いた。
「……そんな生活でしたけれど、母は社交活動に出ない代わりに、少しずつ私に淑女としての教育をしてくれました。ですから私は他の家門の子女より大分早く教育を始めたのです。ただ、その……」
「何か?」
「祖母は、第一子の私が外に出る事で次期当主だと皆が思う事が許せなかったようで、他の家門の子供達との交流は一切なかったのです。母と離れの使用人と乳母くらいとしか触れ合わず、しかも毎日極めて静かに過ごしておりましたので、何と申し上げますか、本来幼少期に発達するであろう表情筋が発達するタイミングを失ったとでも申しましょうか……。いえ、元からあまり表情豊かな子供ではなかった可能性もありますが」
「えぇと、つまり……」
ウルスラの言葉を頭の中で反芻し、組み立て直して、ベルナールは一つの解を得た。
「……幼少期にあまり表情を動かす機会がなかったが故に、表情の動かし方を身体が覚えないまま今に至る、と……」
「流石ですわ、ベルナール様。仰る通りでございます。私が考えるに、これは言わば人間としての個体差です」
「個体差」
「走るのが得意な方、乗馬が苦手な方と世には色んな方がおります。私は表情を動かす事が特に苦手なのです。それが他の方にはひどく不気味に見えてしまう事も理解はしているのですが、努力してみても表情というのはどうにも上手く動かせなくて……」
そして最後にウルスラは、妹を身籠った頃に心臓の病で祖母が亡くなった為、その後、自分達は本邸に戻ったが、その頃にはウルスラの無表情が『完成』されていたのだと話を締め括った。
話を聞き終えたベルナールは紅茶を一気に呷ると、ソファに身を預けて大きな溜め息を吐いた。
(確かに虐待や厳しい教育はなかったかもしれないが、幼少期に表情を動かす機会がなかったという点に対してウルスラが特に気にしていないのも問題なような気がするのだが……? 私の感覚ではそれは明らかに健全ではないが、彼女は無表情ではあっても無感情ではないし、本人が気にしていないのならそれで良いのだろうか……)
他家の事情とはいえ、このように複雑な事情はそうはあるまい。
ベルナールは心の底からそう思った。
それから、自分の母、つまりウルスラの姑になる人物は例え子が男児でも女児でも手放しで喜ぶタイプの人間である事に心の底から感謝した。
(嫁と姑の関係とは話に聞いていた以上に厄介なものなのだな。結婚後はそれとなく気を配るようにせねば)
せっかく嫁いできてくれるウルスラに辛い思いはさせたくない。
自分の母は活力が有り過ぎるから、ウルスラは圧倒されて息苦しくなるかもしれない。
自分が母の手綱を握らなければと強く決意し、ベルナールはうむと頷いた。
「君の表情についてはあくまで個性のうちであるというのはよくわかった」
「ご理解賜りありがとう存じます。社交界で他人に何と言われようとも私は気に致しませんが、ベルナール様がそれらの話を耳にされて誤解を抱いてしまう前に直接お伝えしたくて。私は表情が動きませんから、表情から察する、というのは難しいと思いますし……」
「誤解か。それなら私からも良いだろうか」
「何か」
ウルスラが自身の無表情についての背景をここまで丁寧に語ってくれたのは、表情が動かない経緯を何も伝えない事で、社交界に飛び交う根拠のない噂をベルナールが信じてしまうかもしれないと心配したからだ。
だとしたら、こちらも言っておくべき事がある。
こほんと咳払いを一つして、ベルナールはウルスラに胸に抱えた秘密をそっと打ち明けた。
「……私は今でこそ次期当主だ何だと言われているが、実のところ騎士団暮らしが長く貴族社会からも遠のいていた。君からしたらただの粗野な男だ」
「そんな。ベルナール様はいつだって紳士でいらっしゃいます」
「それは君に良いところを見せる為に見栄を張っているだけに過ぎないんだ。後から幻滅されるより、この場で自ら申告しておきたい」
「まぁ……」
実際、女性の相手はウルスラが初めてで毎回失礼がなかったか冷や冷やしていたし、こうしている間はそれでも気を付けているが、自分は色々と顔に出やすいのだとベルナールは続けた。
「騎士団時代も小隊長殿にはお前は感情が顔や態度に出やすいだとか、自覚なく無理をし過ぎだとか、色々とお叱りを受けてばかりだったしな……」
「ベルナール様が、ですか……?」
「あぁ、どうにもまだ未熟でいかんな。君のようになれたら良いのだが」
自らの欠点を白状して苦笑するベルナールに、ウルスラは考える素振りを見せ、少しの沈黙の後に口を開いた。
「ベルナール様はベルナール様らしいご当主になられるのが一番だと思いますわ」
「私らしい?」
「はい。当主らしく振る舞う事は大切ですが、それは私のように常に表情が変わらないのとは異なりますし、私は……ベルナール様の笑ったお顔が……、その……大変好ましいと……」
「そうか……」
桜色に染まるウルスラの耳を見て、ベルナールの頬にもさっと朱が走る。
「そ、そうだな。私は私らしいレインバード伯爵を目指そう。しかし、まだ勉強中の身で君に助言を求める事もあるかもしれない。頼りない事この上ないが、どうかよろしく頼む」
「私でお役に立てる事でしたら何なりとお申し付け下さいませ。私の知識や経験でベルナール様をお助け出来るのでしたら、それはこの上ない喜びです。ご無理をされていると感じた時には私からお声掛けさせて頂く事もあるでしょうが、どうかはしたないとお叱りにならないで下さいませね」
照れを誤魔化すかのように幾分か早口で行われた続きの会話の微笑ましさに、ずっと二人を見守っていた侍女達は主人に気付かれないように小さく顔を綻ばせたのだった。
そして二人はその夜、ウルスラが領地経営を学ぶ際に参考にしたという本の話や、王国の東西における商業の違いなどを心ゆくまで話し、息抜きにチェスをしたり、ウルスラの手製のジャムを使った軽食を楽しんだりと穏やかかつ健全に過ごした。
外はひどい雨で、風も轟々と吹いていたが、ウルスラはベルナールが側にいる事にすっかり安心して悪天候を怖がる事も無かったし、ベルナールもウルスラから為になる話をあれこれと聞けてリラックスしつつも充実した時間に満足していた。
──翌朝、ベルナールは見送りの為に玄関ホールまで出て来ていたウルスラに声を掛けた。
「次に時間が取れるのは婚約発表の夜会の準備の時だろうか」
「そうですね。……お義母様のお手を煩わせてしまって申し訳ありませんが……」
「いや、母はそれはもう楽しみにしているんだ。どうか気にしないでほしい」
ウルスラの母ディアーナは身重の妹に付き添って領地に残っている為、婚約発表の夜会には出席しない。
その代わりに、ウルスラの支度はレインバード伯爵夫人であるアンジェレッタが取り仕切ると決まっていた。
「お義母様に、ウルスラもとても楽しみにしておりますとお伝え頂けますか」
「あぁ、伝えよう」
そしてベルナールは少し身を屈めると、ウルスラの頬に軽く口付けた。
驚いて硬直するウルスラに、ベルナールが微笑む。
「今回はたくさん話が出来て……、君の事を深く知ることが出来て良かった。次に会う日まで、私のレディに相応しい男になれるよう努力すると約束しよう」
「え、あ、あの、ベルナール様」
踵を返し階段を降りようとするベルナールを引き留め、ウルスラはぐっと爪先立ちになってその頬に口付けを返した。
口付けを与えられるとは思っていなかったベルナールは、わかりやすく目を丸くしてウルスラを見詰め、見詰められたウルスラは目を伏せてその視線から逃れるとぽそりと言った。
「私もたくさんお話が出来て嬉しかったです。……ベルナール様が今日も恙なくお過ごしになられますよう、お祈りしております」
半歩下がり、流れるような美しい所作で礼をしたウルスラに見送られ、ベルナールは少しだけギクシャクとした動きで馬車に乗り込んでアッシュフィールド邸を後にする。
「……っ!」
馬車が走り出し、屋敷の門を出るまでは貴婦人らしくピンと背筋を伸ばしていたウルスラだったが、その姿が見えなくなると、途端にへなへなとその場にへたり込んでしまった。
まるで糸が切れてしまったウルスラを見るのは初めてだったので、一緒に見送りに出ていた侍女や家令が慌てて駆け寄り彼女の身体を支え声を掛ける。
「お嬢様、しっかりなさって下さいまし」
「……わかっているわ。でも、どうにも脚に力が入らないのよ……」
「もう、お嬢様ったら……。でしたらどうして小伯爵様にキスなんてなさったんです」
「あれは勝手に身体が動いたのよ。きっとたくさんお話して、心の距離が縮まった気がしたからだわ」
口付けられた箇所を手で押さえ、耳を真っ赤にしたウルスラは、平常心と繰り返し呟きながら侍女の手を借りてよろよろと屋敷の中へ戻っていく。
火照る頬を冷まそうと必死になっているウルスラは知る由もないが、同じ頃、馬車に揺られるベルナールもまた顔を真っ赤にしていた。
こうして、他の貴族の預かり知らぬところで二人はまた少し距離を縮め、同じくしてレインバード伯爵家とアッシュフィールド伯爵家の婚礼準備も皆の抱える思惑を飲み込みながら粛々と進められていくのだった。