プロローグ
──雨が、降っていた。
厚く垂れ込めた鈍色の雲からは弱まる事なく大粒の雫が降り注ぎ、それは騎士団の屋外訓練場も例外ではなかった。
「ベルナール⁉︎ お前、そんな所で何をしている!」
宿舎へ戻る為に近くを通り掛かった騎士団の小隊長は、訓練場でじっと空を見上げている人影にふと足を止め、そしてそれが先日左腕を怪我をしたばかりの騎士である事に気付くと思わず声を張り上げた。
彼はいつからそうしていたのか、髪も肩も濡れている。
まだ傷も癒えていないというのに、この気温では身体も相当冷えているだろう。
だが、ベルナールと呼ばれたその騎士は、何も気にした素振りも見せず、ただ自分の名前が呼ばれた事のみに反応してゆるりと声の方へと振り向いた。
「……小隊長殿……」
「あぁ、この馬鹿! 医務棟を抜け出して来たな。早くこちらへ来い!」
小隊長は足元に広がる水溜まりをものともせずに最短距離で部下である騎士に近付いて、己が着ていた雨避けの外套をその濡れた肩に掛けてやる。
その時、小隊長はベルナールが手に訓練用の木刀を握っているのを見つけ、何とも言えない顔になった。彼は、その騎士の傷がどのようなものであるのか、本人より先に医師から詳細を聞いていたからだ。
上司のその表情に気付いたのか否か、それまで無言で立っていた若い騎士は微かに笑って言った。
「小隊長殿。俺は、……もう騎士として使い物にはならないようです」
ベルナールの髪から垂れた雨粒が頬に落ちて顎へと流れていく。
二人の騎士はそれきりしばらく言葉を発する事もなく、ただそこに居た。
辺りは薄暗く、人の気配も今は遠い。
ざぁざぁと、ただ雨だけが降り続いていた。
──雨が、降っていた。
アッシュフィールド伯爵令嬢・ウルスラは、屋敷の窓を叩く雨粒の音にふと足を止めて外を見た。
昨日から降り始めた雨は強まるばかりで、空の暗さが何処か不安を煽る。
それは何も空のせいだけではなく、屋敷中に漂うピリピリとした空気のせいかもしれないけれど。
そういえば少しずつ風も強まっているように感じる。
もしかしたら夜には嵐になるかもしれない。
(……ここから見える風景を絵にしたら、題名は『憂鬱』で間違いないでしょうね)
外が暗いせいか、窓にはウルスラの顔が映り込んでいた。
何の感情も滲ませない、社交界では『氷の令嬢』とも評されるほどの無表情で無愛想な己がジッとこちらを見詰めている。
「お嬢様。旦那様がお待ちです」
ぼんやりと窓へ視線を向けるウルスラを侍女が急かした。
ウルスラだって、こんなところで足を止めている場合ではないと理解している。
それでもつい立ち止まってしまうほど足が重く感じてしまうのは仕方がない。ウルスラはこの先に何が待っているか、もう知っている。
間違いなくウルスラの婚約者と妹のイザベラの話だ。
知っている、というのは少し違うかもしれない。別の事柄からこの先何が起こるのかを予測した、というのが正しいだろう。
皆、声こそ密めているものの、今や屋敷中を席巻する大スキャンダルに、まさか自分が巻き込まれる日が来るだなんて。
そんな事を考えつつも、相変わらずの無表情のまま、彼女は小さく溜め息を吐いて侍女に頷いた。
「参りましょう」
いつまでも父を待たせる訳にはいかない。
明かりをつけてもなお薄暗い廊下を再び歩き出すウルスラの耳に、雨が窓を叩く音がいつまでも聞こえていた。
──雨は、しばらく止みそうにはなかった。