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鬼と未  作者: かたつむり3号
第一章 魅惑的な憂鬱
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04


 窓から差し込む月光に目を細めつつ、ゆったりと本の(ページ)をめくっていく。静かな夜だ。アルフォードは友人宅の晩餐会へ招かれ、まだ戻っていない。帰りは遅くなるだろう。


 件の騒動から早くも一か月が過ぎようとしていた。エドマイアからは何の沙汰もなく、モイラ侯爵家から何かしらの訴えがあったという連絡もない。

 メラニーは実に穏やかな日々を過ごしていた。社交シーズンの真っ只中とは思えない。

 夜会にも茶会にも招かれず、かといってこちらが催すこともなく。アルフォードへ届く招待状にはいずれも、娘の参加は遠慮するよう、遠回しに書いてある。わざわざ出向いて、売るほどあるのに売りにも出せない恨みの在庫を、これ以上増やすことはないだろう。

 魅了の魔眼を必要としている不届きな浮気者がいない、という点では素直に喜ばしい。来るな、というのならば行かないに限る。


 そうして暇を持て余したメラニーは、邸中のハンカチに刺繍をし、ハンカチがなくなればメイドのエプロンに刺繍をし、それもなくなればバトラーの手袋に刺繍した。花がいいです、私は小鳥、給仕の際に着けますのでナイフを。試しに募集した図案のリクエストは思いのほか好評だった。

 刺繍に飽きたら読書である。片っ端から読み漁った。本という本を読み、読むものが尽きればメイドが恋人から贈られたというラブレターまで読んだ。一枚を読み終えるまでにかかった時間より、隣で語られた惚気話のほうが長かった。乙女と恋を語らう以上、途方もない惚気話を聞く覚悟を決めておくべき事案である。準備を疎かにしたメラニーが悪い。

 アルフォードが出かけない日は二人で踊り、メイドが焼いてくれたクッキーをつまみ食いして叱られ、そうして夜になれば眠った。


 幾度となく読み返した本は頁が擦り切れ、文字が滲んだ箇所も多い。それでもメラニーの目は、問題なく文章を認識していく。覚えてしまった。暗唱できるほどに読み込んだ。

 コンラグート王国の民が仰ぎ見る、月に住まう女神の教えが記されている。いわゆる聖書と呼ばれるそれはメラニーにとって、親が子へ、寝る前に読み聞かせる物語の代わりだった。


 女神ユースレアティスト。

 愛の女神である彼女は正義を司り、人々の眠りに夢を届けるといわれている。彼女が目覚めると満月の眸が世界を照らす。女神は暗い夜を照らす星々を創り、人々の眠りを見守ってくれるという。

 お優しい女神さまのありがたい教え。毎日、欠かさず聞かされてきた。けれど努力は実を結ぶことなく、メラニーは女神への不信ばかりを募らせる。


「月が住処じゃ、文句を言いにも行けないじゃない……」


 コンラグートの民は死後、女神の元へ魂を招かれるという。文句を言って、魔眼を返却して、ついでに一発……二発ほどぶん殴ってやりたい。願いを叶えるための代償が命というのは、容易く選択できることではなかった。

 後悔ばかりの人生だ。ここで終わらせるのはあまりに惜しい。まだ親孝行もしていない。


「夜は起きているのでしょう? こんなに呼んでいるのに、一度くらい会いにくるべきではなくて?」


 昊に架かる月を睨んでも、返事はない。いつものことだと諦めて、ぱたん、と本を閉じる音に溜め息を紛れ込ませる。

 ぐっと背を伸ばし、根が生えそうな尻を椅子から引き剥がす。疲れた。

 部屋の主を迎える準備を整え待っているベッドを視界の外に追いやって、部屋を出る。静まり返った邸内では、寝間着の衣擦れの音すらうるさいくらいに聞こえて落ち着かない。

 玄関は外の空気がそばにあるせいか、ひんやりと冷えて感じる。耳をそばだててみるも、父の帰宅を知らせる音は拾えなかった。


 しゃがんで、尻を床へくっつける。膝を抱えて小さくなれば、あとはそのままじっとしている。目は閉じない。

 メラニーは夜が嫌いであった。

 夜は女神の気配が濃くなる。女神の眸である満月が照らし、女神の創る星々が彩る昊の下、眠りの中で見る夢さえ女神の慈悲だという。我慢ならない。

 領地で過ごす夜と違って、王都で過ごす独りぼっちの夜は、横になることさえままならない。静寂ばかりが漂うここは、メラニーには静か過ぎる。


 特に最近は、目を閉じると罪悪感が押し寄せどうにかなりそうだ。雑音がない代わりに、脳裏に浮かぶ音がガンガン鳴る。うるさくて、うるさくて。

 毎日のように開催している反省会は、ぐだぐだと自責を吐き出すばかりで改善策の一つも浮かばない。よかったところなどあるはずもなく、評価はいつだって『わたくしはバカ』に尽きる。


「わたくしの、バカ……」


 エドマイアの申し出を断るにしたって、もっとやりようがあったはずだ。国の有力者ばかりが集められた夜会で、堂々と王太子に恥をかかせてしまった。貴族という生き物は、……人間は恥にはめっぽう弱いのだ。

 魅了の魔眼がどこまで通用するのか。実験の感覚で王太子を誑かし、結果として王太子妃に迎えられることがわかったから、その申し出を断った。そんな筋書きに書き換えられてしまったらどうしよう。庇いきれない。国王がそう判断すれば、メラニーだけでなくアルフォードの首まで飛ぶかもしれない。


「お父さま……」


 父だけは守らなければ。メラニーの頭にあるのはそれだけだ。自分を大事にすることは、父を大切にすることのおまけでしかない。

 父を悲しませないため。父には笑顔でいてほしいから。そのための最善を選ばなければならなかったのに。


 メラニーはきっともうお嫁にいけない。貰い手などいないだろう。

 婚約者に捨てられ、魔眼を口実に多くの悲劇を引き起こされ、集まった恨みは売りに出したいほどある。代わりに引き受けようなどという豪胆な男は、大陸全土を探しても見つかりっこない。

 そもそもメラニーを娶るということは、魅了の魔眼を娶るということ。己の強欲を世間に宣伝して回るようなものだ。誰が名乗りをあげるのか。

 ラッシュ家はもう、養子を迎えて後継ぎとするしかない。けれどそれもまた、メラニーの魔眼が邪魔をする。婚約者の心さえ魅了で縛りつけたと言われているのだ。傀儡とされる。恐怖するのは当然の反応だろう。

 万事休す。

 王家は爵位の返上を拒み、そのくせ罪人であることを理由に国外に出ることも認めない。現状、メラニーは身動きがとれない。

 それでもアルフォードは、メラニーが無事でいるのなら構わないと言う。優しい、泣きたいくらい優しい父を、どうすれば幸せにできるだろう。


「ぅ、うぅ……」


 泣けてきた。泣くもんか。

 ぎゅっと目を瞑り、奥歯を噛みしめる。そうしてあふれそうな涙が引っ込むのを待っていると、動く者のない空気がひとりでに揺れた。


【あら、また泣いているの?】


 灯りのついていない玄関がぼんやりと明るくなる。


「泣いてない」

【決壊寸前じゃない。相変わらず泣き虫ね】

「泣いてない!」


 川のせせらぎのような澄んだ笑声が鳴る。ひたり、と頬に触れる手は冷たい。

 涙がこぼれないよう慎重に瞼を持ち上げる。


【ふふ、やっぱり泣いているじゃない】


 水晶の眸は光を受けずとも静かに輝いている。メラニーの片手ほどの大きさしかない体は透けており、波打ち安定しない。

 水の精。

 女神信仰が根づくコンラグート王国において、ほとんど姿を現すことのない、精霊である。


【また反省会? やめておしまいなさいよ。どうせ泣いて終わりでしょう?】

「泣いていないったら! 意地悪を言うのなら帰ってちょうだい!」

【せっかく慰めてあげようと思って遊びにきたのに】


 遊びにきた、のほうが目的としては強そうだ。


「あまり遊び回っていると、女神に見つかってしまうわよ」

【あれは何も見えていないもの。大嫌いなあたしたちのことなんて、きっと気づきもしないわ】


 女神を信仰するこの国では、精霊や妖精といった存在は魔族と同類に数えられる。彼らと言葉を交わすことは、悪魔と契約することと同じ。聖書にはっきりそう書いてある。

 精霊は世界の力を宿す、世界の一部。妖精は自然の力を宿す、精霊の一部。しかし世界の創造は神の御業であると、神は主張する。食い違う意見は古い時代の頃からずっと平行線をたどり、いまだ決着には至っていない。世界にまつわる因縁が、この国から精を遠ざける。


「無茶をしないでね。人間に見つかることも危険だわ」

【この国であたしを焼ける人間なんて、あんたくらいのものよ】


 大丈夫、と笑う声に合わせ、不定形の体が波打つ。

 コンラグート王国が認めている魔法は、自身の魔力器官で生成した魔素を火や水、風といった自然現象に変換して行使するものだけに限られる。自然の力を具現化する。それだけが人間に許された魔法であり、精と契約して世界の力を借り行使する魔法は一切が認められていない。故に、コンラグート王国の民が行使する魔法は、他国の、精霊信仰が根づく国の民が行使するそれと比較すると圧倒的に威力が低い。


「わたくしはあなたたちを焼いたりしないわ」

【ふふ、知っているわよ】


 異なる世界の魂。

 忌むべき女神が統べる土地で生まれた異常を、精は見逃さなかった。双眸に女神の加護を宿し、全身くまなく女神の寵愛を受けている。しかしその魂は染まることなく、女神への呪詛を吐き出している。

 遠ざかろうとも消えはしない。精はメラニーの隣人として、たびたび姿を現すようになった。最初はそばで観察するだけ。それが次第に言葉を交わすようになり、今ではすっかり馴染んでしまった。

 生まれた頃から周囲を漂う世界の気配は、メラニーにとっては当たり前にそこに在ったもので。だから王都のように人が多くて、女神信仰の意思が濃い土地を彼らが嫌うと知ったときは慄いた。

 世界とは、こうも静かであったのか。

 彼らが纏う魔素は常にメラニーの周囲を照らし、彼らの笑い声は常にメラニーの耳朶をくすぐった。それがぴたりと止むと、静寂は肌を刺すほど痛くて、寂しくて、恐ろしいものになった。


 メラニーになる前はそんな寂しさを経験したことなどない。けれど生まれたときからずっとそばに在ったものがなくなるというのは、前世の十七年をあっさり飛び越えた。

 眠れない。

 静寂がうるさくて、眠れない。

 精の気配を感じられない多くの人は、一体どうやって夜を越えているのだろう。心細くて泣きそうだ。


【さあ、お嬢さん。そろそろ眠らないと、大好きなお父さまを心配させてしまうわよ】


 水の手が、優しく頬を濡らした。

 彼らは目を閉じようとしないメラニーに気づいては、こうして寝かしつけにきてくれる。遊びにきた、なんて優しい言い方をして。


「ありがとう」


 いつの間にか涙が乾いている。

 寝室へ戻って、ベッドにもぐりこんで。水の精がぐるりと一周、メラニーのそばへ水滴を散らし終える頃には、もう意識が遠のいていた。

 

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