03
生き辛い。
想定通り、波乱万丈を余儀なくされた人生を振り返り、メラニーの口からは鉛のように重い溜め息が漏れ出した。
愛、愛、愛である。
愛がすべてを狂わせた。魅了の魔眼を授かったことで、メラニーの人生は愛がすべてになった。こんなにも愛に支配された人生であるのに、悲劇のほうが多いとはどういうことだ。愛されるために授かった力であるのに、他者の愛を奪うばかりで、得たものは一つもない。愛は世界を救済してくれるのではないのか。
愛は金で買える。直面している現実を突きつけられているようで、気分が悪い。
重い足取りでぐったりと帰宅したメラニーを、父は深い溜め息と共に出迎えた。その顔には早くも怒りが見え隠れしている。
アルフォード・ラッシュ。
ラッシュ家の当主であり、メラニーの今生の父親である。若い頃は輝かんばかりだったプラチナブロンドは、心労のせいかすっかり金が抜けてしまった。蒼天を切り取ったように澄んでいた双眸も、心なしか暗雲が立ち込めているように見える。
「はぁ……」
タウンハウスのリビングで、テーブルを挟んで向かい合う。ソファーに腰を下ろしたものの、気分は落ち着く気配もない。用意されたお茶はおそらくはハーブティーであったのだろうが、温かいということ以外ほとんど味わうこともできず飲み干してしまった。
「今度は誰だ」
今度はどこのどいつが、メラニーの魔眼に魅了されたとのたまった。アルフォードの問いはそういうことである。
「エドマイア殿下ですわ、お父さま」
「ぁ、ぉお……はぁ……?」
よりにもよって。そんな言葉が漏れ聞こえた。
よりにもよって、王家の人間が愚者の群れに名を連ねるとは。情けない。恥ずかしい。
「キャスリーンさまがわたくしを虐めている、という筋書きでした。責任をとって妻に迎える、と」
「恥を知れ。いや、どこかに落とされたのだろう。拾ってこい、今すぐ」
馬鹿野郎……。
言ってはいけないことだけれど、アルフォードの喉からは漏れてしまった。聞こえなかったふりをしてあげよう。メラニーは口を噤んだ。
「はぁ……それで、殿下は幾ら積むと言ってきた?」
誰が、いつ、どこで、幾ら金を積んだのか。
無罪の証拠として受け付けてはもらえないけれど、記録としては詳細に残すようにしている。金を受け取った。有罪の証明としては容易く利用されるだろうことは、考えるまでもない。メラニーの魔眼を利用する連中に、免罪符を与えてなるものか。
金は、積まれた額を記録だけして、鐚一文も受け取らない。触れることすら警戒して、徹底的に拒絶してきた。そのうえで、彼らが愛にどれほどの値をつけるのかを語らう。今回の愛は随分と高値がついた。彼の運命の相手はまた随分と買い叩かれたな。
不毛だ。
けれどそうやって笑い飛ばすくらいのことをしなければ、八つ当たることもままならない親子の感情はどうしようもない。燻って、煮凝って、腐っていく。一枚、また一枚と分厚くなっていく記録の束を前に、二人はもう悔しがることもできなくなった。積み重なっていく虚無がいつか、重量をもって心を押し潰してはくれないだろうか。
「そのことなのですが、断ってしまいました」
「? 金を受け取らないのはいつものことだろう?」
「そうではなくて、ですね……」
メラニーは事の次第を説明した。
エドマイアが引き起こした騒動に、自身がどうかかわることになったのか。エドマイアが何と囁いたのか。
キャスリーンに投げつけられた『穢れた目』という言葉は省略して。
ぽつり、ぽつりと語るメラニーの言葉を噛み砕きながら、アルフォードの顔には修羅が宿る。背負った、轟々と燃え上がる憤怒の炎が見えるようだ。
「申し訳ありません。王太子妃の立場を、一瞬でもわたくしが受け入れたと思われることだけは寛容できず……」
話を合わせてほしい。
承諾できるはずもない願いである。エドマイアの筋書きがどうであれ、周囲はメラニーが魅了の魔眼を用いて引き起こした騒動だと認識しているのだ。そんな中、妻に迎えるというエドマイアの言葉に一度でも頷いてしまったら。ゾッとしない話だ。
メラニー・ラッシュは王太子妃の席を狙い、エドマイアを魅了しキャスリーンを害した。今度こそ、証拠集めなどすっ飛ばして極刑を言い渡されてしまうかもしれない。
「そうだね。よもやそんな噂が流れれば、いよいよメラニーの命が危ない。いい判断だった」
よく頑張ったね。
柔らかな笑みに、眸の奥がジンとした。
父はいつだって優しい。厄災を宿して生まれたメラニーを、男手一つで育て、愛してくれる。
王家の紋がついた招待状を、受け取るなりその場で裂こうとした父だ。パートナーがいないようなら単身で参加してくれて構わない。書き添えられたメッセージを読むなり、本当にちょっと破いてしまった。丁寧に、長々と綴られた招待の文言は、暗にメラニー一人で参加するよう求めていた。
行かなくていい。
どうせまた踏み台にされる。わかっていても、伯爵家が王家からの招待を断れるはずもない。それでも、行かなくていい、と言ってくれるような父だ。
お茶はメラニーの分しか用意されなかった。娘が帰るまでの時間、腹が膨れるまで飲んだのだろう。気持ちが落ち着くから、と淹れられたハーブティーを、メラニーが帰宅するまで飲み続けていたのだろう。
「お父さま……」
王太子の提案を蹴り飛ばしたことで今後、降りかかることになるだろう面倒事よりも、メラニーの命を危ぶんでくれる。
優しい、優しい父の態度に、メラニーは己を恥じた。
「ち、違うのです。嘘を吐きました」
そうではない、と本心を吐き出す。
「殿下の提案を受け入れる危険性が理由ではないのです。断ったのは、ただ……わたくしの辛抱が足りなかっただけなのです」
ごめんなさい。謝る声は弱々しいものになった。
「メラニー……?」
「許せなかったのです。……いいえ、ただ嫌だったのです」
エドマイアの言葉がずっと、脳裏にこびりついて剥がれない。
『魅了の魔眼が何だというのだ!』
『彼女があのように顔を隠す意味も考えられないのか、情けない……!』
メラニーを庇う、そんなセリフを吐いた舌の根も乾かぬうちに。
目を合わせる素振りすら見せず、話を合わせてほしい、と求めてきたことが、それがどうしても嫌だった。我慢ならなかった。
期待……まで膨れることはなかった。それでも、疼いた心があった。もしかしたら。
メラニーが素顔を隠す理由。真にそこへ心を配っているのなら、視線を合わせる素振りくらいは見せるべきだった。魅了の魔眼を支配下へ置いたメラニーを、信じるふりくらいはするべきだった。
メラニー・ラッシュは制御が可能な魔眼を、それでも恐れる人々のためにあえて隠している。異質な双眸をわかりやすく塞ぐことで、不安はないと明確に示している。
そういう演技を、それくらいの振る舞いを、すべきだった。
「ほんの一瞬でも、自身を損なう選択をしなかった殿下に、腹が立ったのです」
他に愛する人ができた。
魔眼によって魅了されていた、と言えばすぐに払拭できる愚を、たったそれだけの損すら背負おうとしなかった。婚約者の行い、その責任を負ってメラニーを娶る。エドマイアの主張はあくまで、自身に非はないというものだった。どうせ他に、待たせている女がいるくせに。
責任をとる。そんな甘言を吐いて、もしメラニーが受け入れてしまったら、そのとき彼女の立場がどうなるのか。想像できない愚者でもあるまいに。
所詮は踏み台。
自身の幸福を手に入れるためならば、踏み台が壊れても構わないということだろう。
お前が踏みつけたそれは人間だ。
燃え上がった怒りは一瞬で理性を焼き切り、考えるより先に拒絶の言葉をぶつけていた。
「ごめんなさい、お父さま……」
短気を起こした。浅慮だった。――それはいい。
エドマイアの言葉を呑み込むよりは、ずっといい。
しかし嘘を吐いたことは、きちんと正さなければいけないことである。見栄を張って、父親に褒めてもらおうと、嘘を吐いた。短絡的で、浅ましい。
「メラニー……君って子は、まったく」
深く下げたメラニーの頭が、優しく撫でられた。声に滲んだ笑みが、アルフォードに怒りがないことを示している。
「君が怒るのは当然だし、君の判断は間違っていない。その程度、愛娘の可愛い嘘だと水に流してあげるさ」
顔を上げなさい。
従うと、柔和な笑みに迎えられた。
「さあ、メラニー。そろそろ顔を見せておくれ」
まっすぐに視線を交わし、アルフォードが願う。
初めて布を垂らしたときから、アルフォードは一度としてメラニーの双眸を捉え損ねたことはない。いつだってまっすぐに見つめてくれる。
後頭部で結んだ紐に魔力を流し、結び目を解く。不用意に解けることのないよう配慮し、施した細工であった。
描かれた一つ目の紋様を見る。大神官の言う通り、白い布地に黒い紋であれば、ここまで不気味には感じなかったことだろう。しかし髪も肌も色素の薄いメラニーが身に着けるものとしては、あまりに目立たない。目立つこと。優先する条件がそれであったために、譲れなかった。
顔を上げる。
メラニーの双眸は、両親どちらのそれとも違う色をしている。蒼天を切り取ったような父とも、新緑を摘んだような母とも、まるで違う。
鮮烈な赤。満開の薔薇が咲いたような、幾枚もの花弁を重ねたような、不思議な虹彩をしている。
人のそれとは異なる色彩を持つ双眸は、女神が造形した人形という言葉に説得力を増し、同時に異形への恐れも煽る。宿す魔法が魅了であればなおさら、造形の美しさよりも力への恐れが先に立つ。
「うん、今日も君の薔薇は満開だ。綺麗に咲いたね」
しょげてしまったメラニーを奮い立たせるように、はつらつとした声でアルフォードが笑う。
萎れも枯れもしない眸の薔薇だけれど、父に褒められると本当に花開いたような気がするのだから不思議だ。忌まわしいばかりの魔眼を、それでも抉ってしまえない理由。
誰よりもメラニーを愛してくれる父が、綺麗だね、と好いてくれるから。
「お父さまったら、出かける前にもご覧になったでしょう?」
「そうだったかな? まあ、いいじゃないか。娘の顔は朝でも昼でも夜でも可愛いものさ。おや、でも顔色はあまりよくないね」
案じる指先が、優しく頬を撫でていく。
「疲れたんだろう。今日はもう休みなさい」
労わる声がじんわりと染みて、しょげていた気持ちが上を向く。便乗して口角を持ち上げてみれば、気分もいくらか上向いた気がした。
「ありがとうございます、お父さま」
「私は愛娘を可愛がっているだけだよ」
快活に笑うアルフォードにつられ、メラニーも笑う。
メラニーを救ってくれるのはいつだって、父からの無償の愛である。
◇
王都の中心街にある宿屋の一室に、小さな明かりが灯る。照らされ伸びた二つの影が、重なり大きな一つの影となった。
夜会で起きた騒動を鎮めることに手間取り、すっかり夜の帳が降りてしまったことで急遽、宿泊することになったというのが筋書きだ。王都でも一級の宿は高貴な身分の人間がお忍びで利用することも多く、店主は彼の来訪にも驚かなかった。彼が連れていた、婚約者ではない女の連れへは視線も投げない徹底した態度は好ましい。
一つしかないベッドに深々と腰かけ、エドマイアはその端正な顔に迷いなく不快感を浮かび上がらせた。漏れた舌打ちを聞き、隣に座った女が労わるように頬を撫でる。
「エド、本日はもうお休みになったほうが……」
アナベル・リーン。
一年ほど前から王宮で行儀見習いをしている娘である。夜に溶け込む黒髪はコンラグート王国では珍しく、しかし透けるように白い肌と相まって絵画のような美しさがあった。大粒の翡翠を思わせる碧い双眸は、灯りを映してその輝きを揺らしている。
「心配ないよ、アナベル。ありがとう」
眉を下げてしまった彼女の額にキスを落とし、先に寝るよう促す。隠せないほどの苛立ちを抱える恋人を案じる気配をさせながらも、アナベルは逆らうことなく体を横たえた。
規則正しい寝息が聞こえるまで待って、改めて、エドマイアは顔を歪めた。燻る怒りで気が狂いそうだ。
『お断りします』
無感情な声が脳裏を反響する。
メラニー・ラッシュ。苛立ちの原因は彼女にあった。
魅了の魔法などという厄災をその双眸に宿した娘。婚約破棄にまつわる多くの悲劇においてその元凶とされてきた彼女はこれまで、愛を謳う男の言葉を否定したことはなかった。
愛している、と言われても。真実の愛は君との間にこそあった、と跪かれても。君という運命の相手とようやく出会えた、と手の甲にキスを落とされても。
人形姫。呼び名に相応しく沈黙を貫き、手を引かれるまま、肩を抱かれるまま、婚約者を捨てたばかりの男と一緒にその場を立ち去ってきた。その後に差し出された金銭には一切、口止め料だと脅しても受け取らない、という厄介さはあれど、しかし他言したという話も聞かない。
捨てられた令嬢たちの実家からの訴えで幾度も調査の手が伸びているらしいが、証拠不十分であることを理由にいつも解放されているという。
支配下に置いているという魅了の魔眼を、彼女が実際に行使したという事実はない。しかし、行使した、という訴えに抵抗らしい抵抗を見せることもない。
散々に都合よく振り回されているだろうメラニーの思惑が知れない。
裏ではこっそり金を受け取っているのではないか。
幾度も罪に問われ、しかしそのたびに無罪を言い渡されるメラニーの実家であるラッシュ家は、素知らぬ顔で存続している。何かしらの咎を負ったという話も聞かない。
であれば、やはり金で解決したのだろうというのが、エドマイアの結論であった。
捨てられた令嬢たちの恨みを一身に受けることになっても、なお余りあるだけの金を受け取っている。金で解決できるのなら、こんなに楽な話はない。
楽な話であったはずだ。
『お断りします』
話を合わせてほしい。命令ではなく、願ったのは巻き込んだことへの謝意を示したつもりだった。それがいけなかったのだろうか。
婚約者を捨てる場面で令嬢からの恨みを買い、その後は真実の愛を得るために魔眼のせいだと責められる。二重に苦を負わされるメラニーの心情を慮り、一つ目の苦は薄めてやろうと情をかけてやったのに。
『魅了の魔眼が何だというのだ!』
『彼女があのように顔を隠す意味も考えられないのか、情けない……!』
理解を示したつもりであった。
わかっていると、寄り添ったはずだ。
謝礼に支払う金銭も十分な用意があった。口止め料などと卑劣な言葉で脅すつもりもなかった。滞りなく事が済んだあとは、きちんと謝罪も述べるつもりだった。
「っ、……」
メラニーが口にした拒絶の言葉は、エドマイアの計画を瓦解させた。新たな筋書きをその場で考え出すのは困難を極め、おかげでアナベルとの時間を削られた。
これは大いなる屈辱である。
ただでは済まさない。
メラニー・ラッシュ。湧き上がる怒りのまま、エドマイアはその名を奥歯で噛み砕いた。