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鬼と未  作者: かたつむり3号
第一章 魅惑的な憂鬱
1/6

01


 壁の花になりたい。

 メラニー・ラッシュは嘆息する。

 可愛らしい花でなくていい。蜂が寄っては周囲の人間に迷惑だろう。おしべもめしべも引き千切っておく。萎れていてもいい。花弁が足りなくても気にしない。人の目に触れない床付近か、いっそ天井に近いところに咲くのがいいだろう。

 誰にも見られない。誰にも気づかれない。そういう花になれたらどんなにいいか。

 招かれた夜会の会場で、今まさに壁の花と化しながら、メラニーは長く深い溜め息をゆっくり吐き出した。


 彼女は辟易していた。


 今宵の夜会は王都の中心街にある劇場を貸し切って行われている。王都の歴史と共に歩んできた劇場は荘厳な雰囲気に包まれ、招かれた客人たちの背筋を自然としゃんとさせた。

 豪奢なシャンデリアに照らされた広間は中央にダンスフロアがあり、ファーストダンスが終わった現在は、招待客の半数ほどがパートナーを変えてゆったりと舞っている。

 壁際に寄っているのは、立食形式の軽食をつまみ小休憩をする者か、おしゃべりを楽しむ者ばかりであった。始まったばかりの夜会で早々に壁の花になるような怠け者は、メラニーだけらしい。

 王家が主催した夜会である。そのような場で、社交を怠ける愚か者はいない。

 時折こちらを向く、刺すような視線をしっかりと認識しながらも、メラニーは背を預けた壁から離れる気はなかった。怠け者だろうが、愚か者だろうが、構うものか。


 そもそも今回メラニーが招かれたのは、社交が目的ではない。主催者から告げられたわけではなかったが、確信があった。でなければ、パートナーも連れず一人で入場したメラニーが見逃されている説明がつかない。

 ファーストダンスも踊らず、彼女は入場するや否や壁に背をくっつけ花開いている。他の招待客からは顰蹙を買ったが、主催者である王子からはむしろ労わるような言葉を贈られていた。メラニーがここにいる。必要なのはそれだけで、であれば必然、その理由にも察しはつく。


 招待客の多くは王派閥に属する貴族であり、今宵は特に有力者ばかりが集められているらしい。伯爵位であるメラニーはランクとしてはギリギリだろう。爵位以上の、胸を張れるような功績などない慎ましい家系である。

 場違い。

 入場待ちの列に並んだときから感じていたことだ。メラニーはこの場に相応しくない。

 ラッシュ伯爵家という可もなく不可もない家の娘。二十一歳にもなって、いまだに婚約者のいない、行き遅れの令嬢。褒められるような話は一つもない。ただ一点、メラニーの美貌それだけは社交界を駆け巡った。しかしそれもまた、ラッシュ家の誉にはならなかった。


 早く帰りたい。

 手持ち無沙汰に会場内へ視線を巡らせる。誰も彼も、メラニーに気づくとサッと顔を伏せてしまう。しかし言いたいことは燻っているのか、聞こえよがしな会話がどこからともなく漏れ聞こえてくる。


「なぜ人形姫が……」

「パートナーも連れず、何をしにきたんだ?」

「まさか――」

「滅多なことを言うな。今夜の主催は王太子殿下だぞ」

「いつ見ても、気味が悪いわ」

「麗しい顔をしていたのに、もったいない」


 もったいない、とは何だろう。呑み込み損ねた溜め息がしっとりと空気を震わせた。

 メラニーは美しい娘である。

 美の完成形。彼女の美貌はこの二十一年間、毎年その完成度を更新し続けている。毎年のように出来栄えの良さを更新する某名物ワインのようだと、誕生日の朝はベッドの中で溜め息と共に目覚めるのが恒例になっている。

 残念ながら、麗しかった、と過去形にすることは叶わない。今年もきちんと更新した。


 視線を戻し、誰もいない床へ固定する。

 わかりやすくうつむいて見せるなり重なり聞こえた安堵の息は、気のせいではないだろう。


 人形姫。

 メラニーの美貌はその精巧な造形を指して、人形のよう、という言葉が多用される。まるで月に住まう女神が創造したような、浮世離れした美しさがあった。

 人形のよう。

 人間らしくない。そう言われているようで、メラニーはあまり好んでいない言葉であるけれど、否定するのもおかしな気がして曖昧に受け流している。相手が悪意をもって、明確な毒を含ませている場合でも、反応を示すのは面倒でやはり受け流してしまう。

 気味が悪い。

 透けて見える嫌悪の理由がわかるからこそ、口を閉ざすという選択をしてきた。


 メラニーは、女神が創造したと言われるその顔を人目にさらさない。デビュタントを迎える十八歳の誕生日を待たず、彼女は顔を隠してしまった。

 以来、家族以外の人間がいる場では必ず、たとえ国王の御前であっても常に、顔の大部分を、垂らした布でひた隠す。その黒い布には、目を模した白い柄が一つ大きく描かれている。

 魔法による特殊な加工がされておりメラニーの視界は阻害しないが、周囲が彼女の双眸を窺い見ることは叶わない。

 視線を交わせない。眉の動きも見えない。鼻の形も判然としない。頬の色も知らない。唯一さらされている口は、大抵は上品な薄紅色が引かれており、しかし弧を描くことはほとんどない。表情がわからない。感情が知れない。


 たかが布一枚で、メラニーは容易く人間の枠から弾き出された。


 人前に出せないほどの醜女であるのだろう。メラニーの素顔を知らない者の口から時折ひっそりと聞こえてくる侮辱だが、むしろ人間らしくていいではないか、とさえ思うのだ。

 姿ばかりが人間で、しかし目元を隠すその様はあまりに人間らしからぬ。整い過ぎた容姿が余計に、異形の色を濃くする。

 気味が悪くて、気持ち悪い。そこにあるのは明確な拒絶だ。


 臆病者。再びこみ上げた溜め息を今度は呑み込んで、壁へ背をぐっとくっつける。このままじっとしていたら、背から根が生えないかしら。

 花になりたい。

 首をもたげる欲求の不毛さに呆れてしまう。欲さずにはおれない己の浅ましさに、呆れ果てる。

 早く帰りたい。――より現実的な欲求を噛みしめることで誤魔化すメラニーを見ていたかのように、それは起こった。


「キャスリーン・モイラ! 今この場で君との婚約を白紙に戻す!」


 刺すような声が、華やかに賑わっていた会場の空気を氷漬けにした。高らかに告げられた言葉に含まれる怒気に、招待客たちは声の主を求めて視線を泳がせる。ややあって、ダンスフロアから人の波がサーッと引いた。


 エドマイア・コンラグート・リンブル。

 コンラグート王国の第一王子である。持ち前の正義感の強さで多くの臣下に慕われる彼の顔は今、激しい怒りで険しく歪んでいた。


「君にはがっかりしたよ」


 沈痛な声音はどこか演技じみている。

 怒りの矛先が向けられたキャスリーンは、可憐な顔を真っ青に染めた。その肩は震えている。モイラ侯爵家の箱入り娘である。長く連れ添った婚約者からの唐突な呵責に、平静を装う余裕などないのだろう。


「え、エド……? 急に、どうされたので、す……」


 キャスリーンのか細い声は尻すぼみになり、震えて途切れた。エドマイアの冷徹な視線がそうさせた。


「君のような卑劣な女は王家に相応しくない。ぼくが気づかないと思ったのか?」

「な、何をおっしゃっているのか、私……」

「とぼけるな!」


 ほとばしる怒りのまま声を荒げたエドマイアは腕を上げ、真っ直ぐに()()()()()()()()()。氷漬けになった会場の温度が、ぐっと下がったような錯覚を覚える。


「君が他愛もない噂話にかこつけて、彼女に嫌がらせしていたことはわかっているんだ!」

「そんなっ――!?」


 白熱するエドマイアと、声に涙を滲ませるキャスリーンを尻目に、メラニーへ向かう周囲の視線が刃のように鋭く尖る。

 また貴様か。

 それらすべてに含まれるのは、激しい侮蔑である。憎悪や殺意も混じっているのだろう。肌が焼けるようだ。痛い。この痛みは、いくら経験しても慣れない。


「王太子妃に望まれる女性がなんと浅ましい。魅了の魔眼が何だというのだ! 彼女があのように顔を隠す意味も考えられないのか、情けない……!」


 エドマイアの言葉が一方的にキャスリーンを責める。

 わかりません。知りません。

 キャスリーンの必死の声は弱々しく、膨れ上がった怒りの前に儚く散った。


「恥を知れ!」


 それがとどめだった。

 キャスリーンは顔を覆って泣き崩れ、会場内の怒りはすべてメラニーへ向いた。


 魅了。

 他者の心を捻じ曲げ意のままに操作するその魔法は、極めて危険で非常に厄介であるが故に、行使することは禁忌とされている。メラニーはそれを、禁忌をその双眸に宿して生まれてきた。大陸全土を見渡しても希少な、貴重な存在である。

 たった一人で、ただ視線を交わしただけで、人間を、国家を掌握することができる。メラニーはそんな力を、若くして完全に支配下に置いているという点においても、大変に貴重な人材であった。

 しかし彼女はあろうことか、その力を私欲のために惜しげもなく行使している。

 婚約者であった伯爵家の子息を皮切りに、あるときは侯爵家の嫡男を、またあるときは伯爵家の次男を、騎士を、子爵家の若き当主を魅了したこともある。


 罰しようにも、魅了の魔法は行使する本人ではなく、相手の魔力を介して増幅する故に証拠が残らない。メラニーが魅了するために注ぐ微量な魔力は相手の魔力に溶け込み、どんなに精密な測定器を用いても検出できなかった。

 わたくしは何もしておりません。

 無感情に吐き出される証言を覆すことができないまま、いよいよ王家にまで彼女の毒牙は届いてしまった。

 視線を合わせるだけ。メラニーが相手を魅了する際に必要な条件はそれだけである。会話の必要も、そばに寄る必要さえない。遠目に、あるいはすれ違いざまに、視線さえ交わしてしまえばいいのだ。さらに厄介なことに、彼女は目元を常に垂らした布で隠している。視線を読めない。そのことが、ますます彼女の犯行を曖昧にする。


 大陸全土を探してもメラニーただ一人が持つ、唯一の才。

 長く隣国と権力争いを繰り返してきた歴史を持つコンラグート王国において、脅威として周辺諸国への牽制をも可能にするメラニーの存在は扱いが難しい。

 罰するのなら証拠を提出せよ。それが国王の厳命であった。容易に処分できない彼女の希少さが、自国の首を絞めつける。


 誰もが苦々しく顔を歪める中、メラニーだけは動揺の気配すら感じさせない。それが火に油を注ぐとわかっていても、彼女はじっとしている。何もしない。何かしらの反応を示すことすら億劫で、事の成り行きに身を任せてしまう。


「メラニー嬢!」


 泣きじゃくる婚約者を捨て置いて、エドマイアが駆け寄ってきた。返事もしないメラニーに柔らかく微笑み、耳元でそっと囁いた。


「どうか、()()()()()()()()()


 囁く声はメラニーの耳だけが拾った。返事をする前に、それよりも早く、エドマイアは恭しく跪き彼女の手をとった。見上げてくる碧い双眸は、メラニーの唇、その一点へのみ視線を注いでいる。

 ――臆病者め。


「メラニー嬢、ぼくが責任をとるよ。君を、新たな婚約者として迎えよう」

「お断りします」


 ピシリ、と煮立っていた会場の空気が再び凍りついた。エドマイアも、引っ叩かれたような衝撃にびっくり仰天した。

 断られた。

 理解するまでに随分な時間を要し、その間にメラニーはさっさと人ごみを掻き分け会場の外に出てしまった。握っていた手は、ほとんど振り払うような激しさで解かれたが、エドマイアに気づく余力はない。

 制止の声を発する余裕は誰にもなく、脇をすり抜けていくメラニーを全員がただ見逃した。少し遅れて、彼女を追う足音が一人分、静まり返った会場に響いて溶けた。



 すたこらさっさと逃げ出すメラニーを追いかけてきたのは、件の令嬢キャスリーンだった。鋭利な声が背を刺す。


「どういうつもりなの!」


 嫌だったけれど、侯爵令嬢の言葉を無視することはできない。メラニーは渋々立ち止まり、嫌々ながら振り返った。

 まだ涙の膜が乾いていないキャスリーンの双眸は真っ赤になっており、彼女の怒りと相まって燃えているように見える。


「エドマイアさまが何をしたと言うの!」


 あなたを捨てました。

 バカ正直に答えるわけにもいかず、メラニーは沈黙を貫いた。


「あなたは何がしたいの! なぜそんなひどいことができるの!」


 恥を知りなさい。

 奇しくも己を捨てた男と同じ言葉で、キャスリーンはメラニーを責めた。

 何がしたいの、と問われても困ってしまう。だってメラニーは()()()()()()()。ひどいことなど、していないのだ。


 魅了の魔眼とそれにまつわるメラニーの話は、そのほとんどがデタラメだ。

 メラニーは魅了の魔眼を持って生まれ、その力を完全に支配下に置いた。真実はそれだけしかない。

 かつて婚約者だった幼馴染を始め、彼女が故意に魅了の魔法をかけた相手など存在しない。

 わたくしは何もしておりません。

 その言葉に嘘はない。メラニーはただの一度として、魔眼の力で誰かを誑かしたことなどない。存在しない罪を証明しようと躍起になっている連中を横目に、どれだけの溜め息を呑み込んだことか。数えるのもバカらしい話だ。

 どんどんグレードを上げていく魔力測定器を前に、意外とちゃんと証拠を集めるんだな、と魔眼の希少性に感謝したときがピークで、あとはこれといった感動もない。


「わたくしは何もしておりません」

「ふざけないで! あなたがエドマイアさまを誑かしたのでしょう!」


 キャスリーンの金切り声が耳に刺さる。痛い。そんなに甲高い声で叫ばれては、聞こえる声も聞こえない。

 婚約者の乱心は、メラニー・ラッシュの悪意によって引き起こされた。

 キャスリーンは是が非でもそう思いたいのだ。真実の所在などどこでもいい。真実でなくたって構わない。ただ、捨てられた理由を己の中に見出したくない。

 貴族という生き物は誇りを喰って生きている。食うに困れば立場を失う。特に貴族の女は賞味期限が非常に短いうえに極端に繊細だ。高品質を維持するために莫大な金がかかる。そのくせ、かすり傷ですぐに死ぬのだ。

 己の瑕疵で婚約を白紙にされたなどと、認めるわけにはいかない。彼女たちの双肩には、実家という巨大で重苦しい荷物が圧し掛かっている。だから大袈裟だろうと茶番だろうと、これはメラニーの罪だと強調する必要があるのだ。


「エドマイアさまをどうしたいの! 私に何の恨みがあるの!」


 どうもしないし、ましてや恨みなどあるわけがない。

 メラニーにとって、キャスリーンは雲の上の存在だ。伯爵家と侯爵家の距離はとても遠い。彼女は王太子の婚約者という一級のブランドまでついている。片やメラニーは社交界の爪弾き者で、ほとんど犯罪者扱いだ。差が広過ぎて、見上げるのも面倒くさい。そもそも夜会や茶会で幾度か姿を見かけたことはあるが、自己紹介すらしたことがない相手にどんな恨みを抱けと言うのか。


「答えなさい! 人を貶めることが、そんなに楽しいの?」


 メラニーに誰かを貶める趣味はない。理由もない。けれどそんなこと、言っても通じはしないだろう。これまで幾度も声をあげ、そのたびに消し飛ばされてきた。

 疲れた。

 メラニーはもう、反論しないと決めている。言葉を尽くしても無駄なのだから、無意味なことでこれ以上、傷つきたくない。

 学習性無力感というのだったか。いつか読んだ本の記憶を引っ張り出す。手を尽くしても状況を改善できない場面が続くと、逃げ道が用意されている場合でも人は何もしなくなる、だったか。現状に逃げ道も出口もない以上、メラニーが感じているのはただの無力感なのかもしれない。……現実逃避だ。

 返答することを命令されている。命じられたことには従わなくてはならない。メラニーは真実を、事実だけを口にする。


「わたくしは何もしておりません」


 これまで幾人もの男が、メラニーを理由に婚約者を捨ててきた。


 愛してしまった。真実の愛に気づいた。運命の相手と出会った。


 誰も彼もがそう言って、婚約者を捨てたその口でメラニーへの愛を誓う。茶番だ。彼らの言う愛が、本物であったことなど一度もない。

 メラニーの前に跪いた男たちはその後、握った手を振り解き、代わりに金を差し出す。謝礼金、口止め料。そんな名前の大金が今、メラニーが受け取ることを許された最大の愛である。要るか、そんなもの。


 愛してしまった女性と結ばれるための障害を取り除く手助けをしてくれてありがとう。真実の愛に気づいたから、既存の愛を振り払うために必要なことだった。運命の相手と出会ったからといって、そうでなかった相手を傷つけては可哀想だったので助かったよ。


 手前勝手に巻き込んで、自己都合で放り出す。


 騙された。メラニー・ラッシュの魔眼に惑わされ、あんなひどい真似をしてしまった。許してほしいとは言わない。でもどうか償わせてほしい。

 誠意のある謝罪と大金で、捨てた愛を労わって。そうしてほとぼりが冷めた頃に、本物の真実の愛と結ばれる。メラニーという便利な口実を駆使して、彼らは運命を買ったのだ。


 家名に傷を負わされて、社交界で爪弾きにされて、後ろ指をさされて。メラニーはもうお嫁にいけないし、ラッシュ家は父の代で終わる。それでも生きていけるだけの金を渡した、という免罪符を手に、彼らは幸福になっていく。金を受け取らないのはラッシュ家の都合なのだから、それで生きていけないと嘆いても関係ない。


 他人の愛のための踏み台。


 それが今、メラニーに許されている唯一の生き方である。

 渡された金を無実の証拠として提出したこともあったけれど、無駄だった。金で無実は買えないと突っぱねられた。愛は金で買えるのに。おかしな話だ。


「あなたのせいで……」


 言い訳の一つも述べないメラニーに焦れたのか、キャスリーンの声が恨めしげに震えた。


「あなたのせいよ! その穢れた目が悪いのよ!」


 言いたいだけ叫んで、キャスリーンはわっと顔を覆って泣き出した。泣きたいのはこちらだ。言うわけにもいかず、メラニーは繰り返した。


「わたくしは、何もしておりません」


 本当に、何もしていない。

 泣きじゃくるキャスリーンを置いていくのは気後れするけれど、そばにいたって慰めてやれるわけでもない。メラニーはキャスリーンに背を向け、いそいそとその場をあとにした。


 穢れた目。


 その言葉だけがいつまでも、胸に刺さって抜けなかった。痛い。


 げんなりと肩を落として戻ってきたメラニーを、御者は眉を八の字にして、それでも笑顔で迎えてくれた。

 おかえりなさいませ、と控え目にかけられた声に辛うじて返事をして、しかし笑顔は返せずそそくさと馬車に乗り込んだ。疲れた。

 早く帰ろう。

 

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