第03話「家族」(1)
体を蝕み続ける何かの為に、垣鍔佐恵の息は浅く、あまりに不規則だった。
疲労で足元がふらつき始めた時、彼女は抱き締めるように幹に手を伸ばした。
それでも、湖畔の大木に寄りかかる事で必死に立ち続け、最後の力を振り絞って、鋼鉄の巨人が奇怪な巨人を文字通りに打ち砕くのを見届けた。
そして、今、薄ぼんやりとしか見えない視界の端に走ってくる愛娘の姿を捉えた。
心の底からの安堵で、その身体に溜まっていた緊張が一気に解放した彼女の膝はゆっくりと湖畔の地面に落ちていく。
「ママッ!?」
顔面を蒼白にした白音の小さな瞳が広がり、小さな心臓が生み出す音が一度は訪れた静寂を打ち破る。
その声は恐怖と心配が入り混じる切ないものだった。
(垣鍔さん)
研介も続いたが、巨大な鋼鉄の塊が走るのだ。
湖畔の揺れは水面下から、白音を狩る機会を窺っていた何か達を水底へと追い立てる程に凄まじかった。
彼女が足をとられなかったのは、母への強い思いからだろう。
「ク、クレヴァリー」
小さい右手でぐったりとした母親の頬に触れながら、左手で母の手を必死に握りながら、不安に怯える顔で白音は問いかける。
左右に分けられた髪を風になびかせ、湖面を涙で光らせながら。
(今、俺が白音ちゃんにするべきだった事は出来ない)
安心させる為に駆け寄って、小さい肩に手を置く。
研介が一番やりたい事はどんなに願おうと出来ない。
だが――。
(急病人を助けたり、災害現場に駆けつける。シリーズの定番のエピソードだったから)
恐怖で震える白音の心臓の音を打ち消さんとばかりに、研介は大気を震わせる勢いで大きく息を吸い込んだ。
夜闇を裂かんとばかりの轟音が響き渡らせ、舞い踊らせた湖畔の土をも呑み込んだ彼はカッと目を見開いた。
「クレヴァリー・アナラァァィズ」
叫びが湖畔に轟くと同時に、研介の右目側に掛けている片眼鏡の縁が光っていく。
光の円が完成すると同時に、レンズから一直線に照射された暖かみのある赤色の光線が佐恵の顔を照らした。
直後、垣鍔佐恵。国籍日本。身長165センチ。体重53キロ。体脂肪率23%。血液型B型。アンダーバスト87。トップバスト101。
そんな情報が幾つも、それもほぼ同時に、研介の脳内に飛び込んだ。
それは十人に同時に話しかけられたようなものだった。
「うぉぉっ!?」
引っ越しの手伝いに行った時のアクシデント。
梱包不良だったダンボールの蓋が開き、その中身、佐恵の上下セットの下着の詰め合わせが見えてしまった事故を思い出して、よろめき気味に後退る。
成人男性が驚いてなら、誰かにぶつかる程度だっただろう。
だが、今は身長十メートルを超える鋼鉄の巨人である。
ちょっとした不注意が誰かの命を奪いかねない。
「クレヴァリー。ママは? ママは助かるんだよね!?」
大地を揺らした研介の慌てぶりを見て、白音はその可愛い顔を蒼白へと変えた。
強く握っていた母親の手を放し、立ち上がると半歩だけ前へと進んだ。
(ラノベや漫画だと、ステタース・オープンとか言って、簡単に自分や他人の情報を見ていたけど)
鋼鉄の目元を金属製の指で抑えながら、大きな頭を左右へ激しく振る研介を白音が不安そうに見上げていた。
(一度に大量に入ってくるし、女性の体重にスリーサイズとか、勝手に知っちゃ駄目な情報だし、何より、今、必要な事じゃない)
研介は目を閉じ、夜風や湖畔に生きるもの達の息吹を聞かないように意識。
大きく息を吸って、数秒の後、ゆっくりと吐く。
主に空手などで行われる息を整える為の仕草を何度か行った。
「す、すまない。もう一度、君のお母さんを見させてくれ」
その求めに頷いた白音は静かにしゃがみ込み、母親の手をぎゅっと握り締める。
(集中しろ。集中するんだ。俺ッ)
「クレヴァリー・アナラァァィズ」
再び放たれた光は佐恵だけでなく、白音までも包み込んだ。
そして、幾つもの情報が同時に研介の脳内に飛び込み始める。
しかも、今度は意図せずに巻き込んでしまった白音の情報までもが。
だが、今度は佐恵の現在の状態を把握する――と強く意識をしていた為だろう。
(呼吸、心拍の少なさに、目の動き方……何よりも体温の低さ。これは低体温症の重度一歩手前だ)
一度に大量に見せられるのは変わらなくとも、必要な情報だけを認識出来ていた。
その結果、自分が知るはずのない医学知識に基づく分析が、研介の頭の中に浮かび上がる。
(それに血液中に未知の毒物だって!? だけど、こんな真夏に、そんな酷い状態にする毒! そんなの現代には存在しないぞ!!)
驚いた研介は無意識に拳をぎゅっと握り、金属と金属が重なり合う鋭く冷たい不協和音を響かせた。
その音を聞いた白音は頬を青白くし、震える目を不安そうに研介へと向けていた。
(こんな事をやっても時間の無駄だ。この世界の薬物を知らない俺には何も出来ないじゃないか)
「クレヴァリー」
ママを助けてくれないの?――という声にならなかった求めを聞き、研介は胸を締め付けられるような感覚に襲われ、更に拳を強く握り込んだ。
(いや、今の俺ならば)
「私はパイロットを必要としない完全自立AI型だが、人が乗る為の空間も用意されている」
すらすらと説明めいた台詞が出る事に研介が戸惑う中、彼の胸部が、人間で言うならば心臓の直ぐ隣がガコンという音と共に持ち上がる。
(開いた!? 本当に体が開いた!?)
自分が願った事とはいえ、実際に胸のハッチの蓋部分が持ち上がり、外気が体内に入り込む感覚に研介は戸惑いを隠せなかった。
だが、大きく息を吸うと静かに吐きながら、ゆっくりと屈み、その鋼鉄製の右掌を地上へと降ろしていく。
「コックピットには寒冷地や空気の薄い高高度等でも、搭乗者が快適に過ごせるように、室内環境を調整するシステムが搭載されている」
研介の意図を察し、白音は母親の肩に手を回した。
だが、どんなに気合を入れようと、少女が一人で大人の女性を動かすのは容易ではない。
すると、タタッタと足音をさせ、走り寄ってきた白音達の愛馬のトゥラビィが佐恵の襟元を噛み、研介の手の平へと押し上げた。
「スペースには余裕があるから、お母さんと一緒に乗り込んでくれ」
「うん」
「さぁ。直ぐに近くの病院へ行こう」
鋼鉄の手の上で母親の手を握っていた白音は夜空を見上げて、星の位置を確認。
研介も連動するように夜空を見上げ――思わぬ光景に体を硬直させた。
(月に相当するモノがあるのはいいとして……。何で、地球の夜空で見れるのと、ほとんど同じ星座が見えるんだ!?)
「今、ママと暮らしている街はあっち」
小さい指先を湖の反対側へと向けた白音の声を聞き、研介は半ば無理やりに意識を切り替える。
「あ、ああ。ありがとう」
(いや、星空の事なんて、気にするのは後でいい)
静かに持ち上がり始めた巨大な鉄の手を、飼い主達の行方をトゥラビィが不安そうに見上げた。
(卵を乗せているつもりで)
研介はゆっくりと立ち上がりながら、二人を乗せた手の平をパカリと開いている胸部へと持っていく。
「アニメのにそっくり」
出入口の間近に何本ものレバーが並び、乗り降りがし難そうで、設計思想が間違っている――としか思えない。
そんな搭乗席だったが、白音は不満など一切感じさせない。そんな興奮の声を出した。
だが、パンパンと両手で頬を叩くと、周りが金属に囲まれているが、冷たさは感じさせない。
そんな小部屋に足を踏み入れ、ぐったりとしている母親の体をゆっくりと引き込んだ。
「手伝えなくてすまない……。えっと、車のシートベルトのように」
「乗り方を見ていたから大丈夫」
研介の心配など杞憂――とばかりに、白音は母親を操縦席に座らせると、シンプルに横一直線の腰のベルトを。
続けて、エックス字に胸部を固定する二本のベルトを手慣れた動作で着用させた。
(記念すべきシーンのはずなんだがな)
白音の言葉を聞き、研介は複雑な思いを秘めた顔で一息を吐く。
それによって生じた、乱気流に巻き込まれたフクロウがボフォーと抗議の一声をあげ、逃げるように飛び去った。
(だが、今はそれどころじゃない)
ぎゅっと握られた鋼鉄の拳が生んだ音にトゥラビィが何事か? と両耳をピクピクと動かした。
「パイロット席の保温システムを起動」
生き物が発した声ではない。
だが、温かみのある宣言と同時に、佐恵が固定されている椅子が熱気を帯び始める。
「あの馬も」
自分をじっと見ている二人の愛馬に向けて、研介はゆっくりと静かに上向きにした掌を伸ばしていく。
トゥラビィは逃げ去りはしないものの、ある程度まで鋼鉄の手が迫ると、さっと距離をとる。
飼い主達と共にいる鉄の塊を敵では無いと理解しつつも、近寄られたくも無いのだろう。
「大丈夫。クレヴァリーは味方なの」
コックピットから上半身を乗り出させた白音が呼びかけると、トゥラビィは恐る恐ると歩いてくる。
そして、差し出された右手に鼻先を突きつけ、何度か鼻を鳴らすと、その掌へと前足をかけた。
(急に暴れられても、落さないように)
「ヒヒィィッン」
トゥラビィは持ち上げられる際に嘶きをあげたが、逃げようとするような事は無かった。
「では、ハッチを閉める」
持ち上がっていた部分が静かに降り始め、外光が頼りだった白音達の乗るコックピット内が少しずつ暗くなっていく。
密閉される音が響き、完全な暗闇になると同時に、白音達を囲む壁が一斉に点灯をした。
否、外の様子を映し出すモニターが活性化されたのだ。
白音が月光に照らされた湖畔の美しさに息を呑んでいると、ゆっくりと外の景色が流れるように動き始めた。
** § **
夜の闇が深まる森の中の一本道を研介は走り抜けていく。
ただし、彼は月光を撥ね返す文字通りの鋼鉄のような体を持っており、まるで山のように巨大で、周りの木々と同じ高さに達していた。
故にどんなに望もうと静寂を破ってしまう。
「ネットの配信で見ていた賢者ロボット達は凄いカラフルだったけど……。クレヴァリーは何で、白一色なの?」
胸部近くにある一画、コックピット席に母親と共に乗り込んでいる白音に。
体の内から問いかけられるという状況を受け止めきれた研介だったが、思わぬ難問を前にした顔で唸り声をあげたくなっていた。
「他のロボットアニメ『警装機ミアグル』の主人公機だって、白黒と二色は使っていたよ」
損壊シーンが多い為か、軽装機と揶揄される事もあるが「アニメ史上に残る名デザインだ」と思っている。
そんなパトカーモチーフのロボットを思い出しながら、苦悩する青年は心の中で呟く。
(カラー絵を描かなかったからって、ほぼ白銀一色で現実化しなくなっていいだろォォッ!!)
否、絶叫をしていた。
「もしかして……。私もママも白色が一番好きだから、ロボットアニメの世界に大勢いる賢者ロボ達の中から、真っ白なクレヴァリーが助けに来てくれたの?」
体内に収納しているが為、見えるはずがないのに満面の笑みで尋ねられたと分かる。
理解しがたい事象への戸惑い。
そして――。
(ロボットアニメの世界か……。魔法少女アニメの世界に、ヒーローが活躍する特撮ドラマの世界とかからも、誰かが来るフラグに聞こえるのは気のせいか? いや、白音ちゃんの口ぶりからすると、もう、来ているのか?)
嘘には優しい嘘もある――と自分を納得させ、悩める若者はゆっくりと答える。
「そうだね……。私が此処に来れたのは、そういう理由もあるのかもしれない」
「そっかー。嬉しいな」
見えないが、感じる事が出来た。
長年の難問が解けた数学者のように晴れ晴れとした白音の笑顔に、研介も心の靄が晴れた顔をした。
「ところで、乗り物酔いは大丈夫かい?」
「うん。ママの運転みたいに快適」
その言葉は研介に佐恵の運転する車に乗せてもらって、買い出しの手伝いに行った時の事を思い出させた。
(よかった。なら、もう少し、駆け足でも……。いや、駄目だな)
「だけど、あまり速く走ると」
「そうだね。馬が落ちないように気をつけないと」
「馬じゃない」
鋼鉄の掌の上で直立不動の姿勢で、じっと前方を見張っている赤毛に目をやった研介に白音が不満を露わにする。
「トゥラビィ。ママと私の家族のトゥラビィ」
そして、優れた聴覚で声を捉えた二人の愛馬は耳をピクピクと動かしていた。
「ああ。すまない」
白音が満足気に微笑んだのを感じて、安堵の一息を吐いた後、研介は掌へと視線を向ける。
「トゥラビィ。揺れは?」
「ヒヒィィィン」
すると、もっと早く走れと催促するように蹄を鋼鉄の掌へガシガシと打ちつけられた。
(心配するなって事でいいのか?)
不安を感じながらも、研介は少しずつ、両足を振り上げる速度を上げていった。