第01話「愚者/母娘/xxが願った事」(2)
揺れ動く水面が月の光を撥ね返す。
そんな湖の辺を女性と少女を乗せた赤毛の馬が、まるで風に乗るかのように、否、風を追い越さん勢いで走っていた。
女性の方は長い髪を一まとめにし、少女の方は左右にまとめているが、同じ柄のスカートとエプロンを着用している事もあるからだろうか? 一目で親子と分かる程に風貌が似ている。
時折、風の中に血の匂いが混ざるからだろうか?
新鮮な肉を求める獣達が木々の陰や茂みの中で唸り、吠え声をあげ、水面でも異形の何かが顔を覗かせる。
だが、そのどれもが、二人が走り去るのを悔し気に見送った。
「ママ、まだ止まらないの?」
女性に抱えられ、馬の背と挟まれるような体勢で乗っている八歳程の少女が不安げな顔で問いかける。
「大丈夫。ちょっと、薬の効きが遅いだけだから」
ゆったりとした服の上に、夏用のモノとしては分厚過ぎるだろう。
そんな皮コートを纏った女性の左腕からは、ゆっくりとだが、血をこぼれ続けている。
しかも、コートには切り裂かれ、何かで射貫かれた痕が少なくなかった。
(あの行商人、次は思いっきり、値切ってやる)
今、娘と共に暮らす世界――異世界の医薬品。
数年前まで、暮らしていた世界には存在しなかった物の一つ。
悲鳴をあげたくなる程に沁みるが、即座に効果を発揮するし、殺菌効果もある。
時に荒事にも巻き込まれる運送業をやるうえでは、必須と言える止血剤。
馴染みの行商人から購入した一つが、まったく効果を発揮しない事に苛立ち、食い千切らん勢いで母親は唇を噛んだ。
「ッ!!」
母親は自分で自分の口を裂こうとしているかのように大きく開き、分厚い革製の服越しにも目立つ双丘を、更に誇示するかのように大きく仰け反らせた。
直後、布を無理やりに裂いたような音が鳴り、細長い木製の剣が馬の背を転げ落ちる。
手綱を握っていたとはいえ、騎乗している状況で弓なりの姿勢になれば、バランスを崩すのは当然。
そして、どちらの手も大きく、開いてもしまえば。
「ママッ!!」
少女は流されるように後方へ飛んでいく母親に向けて、叫ぶと同時に右手を伸ばした。
それでも、咄嗟に左手で手綱を強く握ったのは、母親に乗馬を徹底的に叩きこまれたからだ。
「ヴゥルッ!?」
その悲痛な声で、赤毛の馬も異変に気づいて、首を後ろ側へと向ける。
だが、急制動をかければ転倒する事を本能的に理解しているのだろう。
安全にターンを出来る状態にせんと、ゆっくりと足を振り上げる速度を落していく。
「ヴッ!」
速度を落しているとはいえ――まだ安全にターンを決められる程、ゆっくりと走っていたわけでも無い。
そんな状態で背中が急に軽くなった事で、少女までが降りた。
否、無理やりに飛び降りた事に気づき、悲鳴じみた鳴き声をあげた赤毛の馬は前傾姿勢へとなり、夜闇の中で土煙を巻き起こした。
** § **
少女は鞍を踏み台にして空中へ跳ぶと同時に、両肘を胸に寄せて、ぎゅっと握った拳を眼前に寄せながら、前屈みになった。
母と共に暮らす街を訪れる流れ者達から教わった技の一つ。
一種のアクロバットを行うも――。
「ァウッ……ゥ」
コロンどころか、ゴロンなんて表現でも済まない。
ゴリガリというような音をたてながら、少女は地面を転がり続けた。
スカートは激しく擦られ、エプロンも泥まみれになった。
だが、速度が落ちるや、両足を広げ、無理やりに急制動をかける。
「ッ……ママ」
それでも、何メートルも転がり続けたが、足の痛みなど感じないとばかりに走り出す。
「ヒヒィィン」
悲痛な鳴き声の直後に、土が激しく削られる音が響き、かなりの重量物の倒れる音も続いた。
少女は一瞬の躊躇いの後、足を止めて振り返った。
「ヴゥルゥヴゥ」
速度を落とそうと曲がり切れずに転倒をし、蹄で地面を削り、土埃を起した赤毛の馬が唸り声をあげていた。
だが、そこに怒りはあっても、不甲斐ない自身への不満じみたもの。
「トゥラビィ」
煎じる事で薬となる植物を好んで食べる為、とある部族の言葉の『薬草』と名付けられた馬。
数年前に迎えた新しい家族の痛ましい姿に少女は走り寄ろうとした。
「ヒヒィーン」
だが、早く、行けとばかりの嘶き声を聞き、少女は後ろ髪を引かれる思いで、地面に倒れている母親へと走り出す。
しかし、彼女よりも早く、現場に着き、彼女の母親を抱き起こしている者達がいた。
「ようやく、効いたか」
全身から力が抜けたように、ぐったりとしている母親を抱き起こしていた男。
少なくない乾いた血の痕がついた皮鎧姿の男は不満を露わに呟き、あまり手入れをされていない髭に片手をやった。
「ママッ!!」
危険な状況だと理解している。
それでも、 悲痛な叫びをあげ、駆け寄ろうとした少女の肩に病的とまでは言えないものの、痩せ身の男の手が伸びた。
「あいつの目的は分からねぇが、お前らのような異世界人の知識や技術は金になるし、それに」
瘠せ身の男は逃れようと暴れる少女を一瞥。
母親を思う目に気圧され、躊躇いがちに言葉を続けた。
「お前も七、八年もすれば、母親似の美人になるだろう。一緒に大人しく飼われている方が、運送屋で働くよりも、よっぽど、良い暮らしを」
バァッン。
そんな音が湖畔に響くや、血の跡が残った皮鎧の男がよろめいた。
目を見開いた瘠せ身の男の隙をつき、その手から逃れた少女は必死に走った。
そして、震える足で必死に立っている母親の支えにならんとばかりに、その腰に抱き着くと両足に力を込めた。
「子供を守る為なら、ステゴロだろうといけるんだよ」
今にも倒れそうな母親がポニーテールを振りかざし、必死の形相で気合を込めた声を夜闇の中に響かせた。
「母親をなめんなァァッ」
だが、皮鎧の男が母娘に向ける顔は不意打ちに驚かされたというよりも、不安を隠せないというものだった。
「この子を連れて行きたければ、まずは私を殺してからにしろ」
「だからァ。言ってるだろォ。俺達はお前も娘も殺す気はねぇって」
皮鎧の男は人質をとった犯人に投降を呼びかける警察官のように両手を大きく開いて、何も持っていないとアピールをしながら、ゆっくりと近づいていく。
「お前に当てた矢に塗った麻痺毒は、俺達も聞いた事が無いやつなんだ」
「そうだ。激しく動いて、毒が回り過ぎると、致死毒になる可能性も」
瘠せ身の男も同様に無害を強調するように両手を大きく開いていたが、同じポーズをしているが故に彼の痩せ具合が尚更に強調をされる。
二人が母親の注意を引いている裏で。
実際に彼女の後ろから、そっと近づいている小男がいた。
さすがに娘よりは大きいが、彼女の母親よりは小柄な男が気づかれないように、娘を羽交い絞めにせんと手を伸ばす。
だが――。
「おらァァッ」
魔手が伸びる前に、その手の主の顔面に娘を守らんとする母親の肘鉄が勢いよく打ち込まれた。
「ぁえァッ!?」
「ぁ!?」
月明りの下、鼻血を吹きながら、倒れていく小男に引っ張られたように母親も倒れていく。
「痛ェェェ」
「――ァ――ッ」
鼻を抑えた小男が右に左にと転げ回る隣で、必死に空気を求めるかのように、口を大きく開けた母親が体を強張らせていた。
「くそッ! ほら、とっとと連れて行くぞ」
「ママ」
苦しむ母親を助けようと娘は駆け寄ろうとするも、皮鎧の男の手が細い肩をがっしりと食い込んだ。
何としても逃れようと少女は暴れるが、麦袋を担ぐように、軽々と持ち上げられてしまう。
「一緒に届けて、向こうで毒抜きもしてやるから、暴れるな」
男の目くばせを受けて、瘠せ身と小柄な男達が痙攣を始めた母親の両隣で屈んだ。
(誰か、白音を……お願い)
どんな毒物かは分からないが、体が急速に蝕まれているのが分かる。
男達が使用量を誤ったのか、動き回った為かは分からないが、自分が意識を保てる時間は残り少ない。
本能で理解を出来てしまったからこそ、母親は何としても、娘を助けようと起き上がろうとする。
「ァ……ェ」
だが、どんなに願おうと、体は緩慢にしか動かない。
必死の叫びも掠れた声にしかならない。
だから、全身全力で願った。
(誰か、私の代わりに白音を守って、支えて)
そして、何よりも、目の前で助けを求める娘に何も出来ない自分の不甲斐なさ。
怒りと悲しみが入り混じった表情で、母親が捕まった娘を取り換えさんと全身の力をふり絞って、震える右手を動かした時だった。
パリィィン。
突如、陶器が割れような音が湖畔に響いた。
否、それは単純に音というよりも、轟音というべきもの。
だが、湖畔という広々とした空間全土に音を伝えるような割れ物が存在するのだろうか?
その場の皆が音の正体を掴もうと、周囲を見回しているのだから、幻聴という事も無かった。
ならば、何が割れたというのだろう?
「ッ!?」
最初に気づいたのは兵士時代、進行ルート作成の為、敵勢力の支配領域を何度も潜り抜けてきた元斥候の小柄な男だった。
彼の震える指先が何かを指しているのに気づき、母娘を囲む男達も空を見上げる。
必死に体を動かさんとしている母親と、彼女が助けようとしている囚われの少女も、すがるように空を見上げた。
そして――。
黒い夜空の一部が割れたかのように、白く光っているのを皆は見た。
そこから、幻想的に月光を撥ね返している巨大な手が伸びてくるのも。
まるで、何かを掴もうとしているかのように。
否、倒れている誰かを助け起そうとしているかのように。
だから、母親は全身の力をふり絞って、震える右手をゆっくりと伸ばした。
「な、何だ! あ、あれは!?」
直後、夜空が大きく裂け、白い光の中にいる手の持ち主の姿が露わになった。
「きょ、巨人」
そう。その何かは大きかった。
湖畔と夜空の裂け目は、かなり離れているはずなのに、その全体像を一目で理解出来る。
鳥の羽のように見える白色のマントの隙間から、全身を覆った白銀色の鎧が見え隠れし、その鉄の靴には抗う全てを踏み砕かんという力強さがあった。
頭部と顔面を覆った一体化型の鉄仮面はフクロウを思わせるデザインだが、羽角の存在でミミズクを模していると分かる。
右目側にだけ、片眼鏡を掛けている為だろうか? それとも、左腰の鞘に剣の代わりに、杖を挿しているからだろうか?
重厚な全身鎧を着ていようと、力任せというより、策を行使しそうな雰囲気を漂わせている。
それら全てが、まるで直ぐ側にいるかのように、遥か地表から克明に見えるのだ。
なら、その全長は最低でも、十数メートルは超えるだろう。
「光が消える!?」
突然、現れた時とは違って、裂け目の光は漆黒の空に溶け込むようにだんだんと弱くなっていく。
「だが、奴は残っているぞ!!」
瘠せ身の男が叫んだように、巨人だけは消えなかった。
しかも、月光を全身に纏った白銀で撥ね返しながら、静かに降下を始めていた。
「こ、此処に来る気か!?」
しかも、足からの着地ではない。
真っすぐに伸ばした右の拳を大地に撃ち込まんという体勢での急降下だった。
「ウォォォッ!」
夜闇を震わせる咆哮まで轟かせているのだから、その拳の先にいる人々は堪ったものではない。
瘠せた男は更に病んだように顔を蒼白に変え、小柄な男はガタガタと足を震わせる。
皮鎧の男は振り落とされる拳をじっと見ているも、口をポカンと開けっ放しにし、自分が何をしようとしていたのかを忘れてしまっていた。
正気だったのは――ただ一人。
「んッッッ」
絶好の脱出の機会を逃すような事はしない少女は気合の一声と同時に思いっきり、その可愛らしい頭を後方へと振るった。
「アグォ!」
それは完全な不意打ち。
だが、皮鎧の男は顔を殴られようと毎回耐えきり、殴り返してきた経験があった。
しかも、顔面への一撃がショック状態を脱しさせてしまう。
「離してッ」
「こらッ! 暴れるなッ!! お前ら、こいつの母親も」
少女は頭を激しく振り、再度の頭突きを狙いつつ、体を左右に振って暴れ続ける。
抱えた少女を落さないように、必死にバランスをとる皮鎧の男の指示に瘠せ身と小柄な男達も動き出し、呼吸をするのも苦しそうな女性の肩に手をまわして、無理やりに立たせたが――。
「ァエ!!」
「ウォッ!?」
震える両足に力を入れ、必死に踏ん張った母親が鬼の形相で放った二撃。
右と左の肘を鼻と胸部に打ち込まれ、瘠せ身の男は前のめりによろめき、小柄な男は尻もちをついた。
「し――ェ」
まともに呼吸を出来ない中、母親は必死に走ろうとしたが、一歩を踏み出した直後に、全身から力が抜けたように崩れ落ちる。
立ち上がった男達は走り寄ろうとするも、突然の暗闇に包み込まれてしまう。
しかも、何が起きたかを理解する間もなく、ドォォォンという音と共に広がった衝撃波によって、背中と腹を湖畔へと叩きつけられてしまった。
** § **
「何だ? 何をしているんだ!?」
「自分の手を見ている? 俺達に興味は無い?」
恐々と後ろを振り返った小柄な男が呟くと、泥まみれになった瘠せ身の男が答えた。
そう。巨人は彼らの背後に降り立つ際に、大地を激しく揺らした後には何もしなかった。
新雪のように純白であり、鳥の羽のように布の上に布を重ね合わせた作りのマントをバサバサと風に靡かせながら、まるで失ったはずの右手があるのを不思議がるように、じっと、自分の手を見ているだけだった。
そして――。
(初めて見るはずなのに、あれが何かが分かる)
(私、あのロボットを知ってる)
(そうか……。あの人が部屋に飾っていたプラモや、白音が研介君と一緒に見てたのに似てるんだ)
(研介おにいちゃんと一緒に見た事がある)
母娘は今、暮らしている世界とは違う世界で見た事のあるアニメを思い出していた。
より正確には片眼鏡、腰に杖を提げた鋼鉄の巨人と、アニメの主役達が重なって見えていた。
「刺激をするな」
まったく理解を出来ない何かではないが故に、思考を放棄する事も出来なかった皮鎧の男は意を決した表情で静かに口を開いた。
「ゆっくりと動け」
何とか立ち上がれていた二人に小声で指示を出すと、皮鎧の男は少女を抱え上げたまま、静かに後退りを始めた。
だが、その僅かな動きに反応をしたかのように、鋼鉄の巨人が手を握りこんだ。
「くっ」
焦りを露わにした皮鎧の男の方へと、ミミズクを模した鉄仮面を被っている巨人が顔を向ける。
だが、仏作って魂入れず――心、此処に在らずといった様相だった。
しかし――。
「賢者ロボォォッ!」
何度も脱出を試みた少女の叫びが、全力の咆哮が湖畔の木々を揺らし――。
「ママを助けてェッ!!」
「馬鹿ッ! 怪物を刺激するんじゃねぇ」
自分の身よりも、倒れた母親を優先する優しい少女の願いを踏みにじる悪漢のごつい手が、彼女の小さな口を乱暴に塞ぐのを見たからだろうか?
巨人は今、正に魂を得たかのように全身から、夜闇を震わせる程の生気を溢れ出させ始めた。
そして、怒りを露わに大きな右手をぎゅっと力強く握り込み、金属同士がこすれ合う音が湖畔に響かせる。
「今、直ぐに撤退だ」
皮鎧の男は高台から、長弓で狙われていた時のような死を感じるとるや、地面に倒れた母親を抱き起こそうとしていた瘠せ身と小柄の二人に叫んだ。
その声音に何かを感じた彼等が木々の方へと走るのと、少女を担いだ皮鎧の男が必死の形相で走り出すのは同時だった。
だが――。
誰も逃がさない。
否、母親思いの優しい子を連れて行かせないという意志のもと、振り落とされた巨大な足がドォォォンと湖畔を揺らし、彼らの必死の努力を一瞬で無に帰した。
「ぅぉぉッ!?」
抱えた少女を落すまいと両足を踏ん張り、素早く腰も落す事で重心を安定させた皮鎧の男を巨大な影が飲み込んだ。
「巨人! お前は何者だ? 何が目的で降りてきた!?」
逃げきるのは不可能だと判断した皮鎧の男は活路を見出さんと意を決した表情で問いかける。
「娘を思う母の願い」
必死に起き上がり、子供の所へと向かおうとしている母親に顔を向けながら、巨人は優しい声を響かせた。
「母を助けたいと願う娘の思い」
巨人は母親に駆け寄ろうと暴れ続ける少女へ、その努力を後押しせんとばかりの力強い声を向けた。
「親子の情に呼ばれた」
全身を射貫くような力強い声を浴びせられ、呻き声をあげた皮鎧の男が後退る。
「私はクレヴァリー。狭間の世界から来た賢者ロボ・クレヴァリー」