第01話「愚者/母娘/xxが願った事」(1)
その夜、東京のとある一画は異常なまでに濃い霧の為、白く彩られたかのようだった。
数メートル先でさえ、薄ぼんやりとしか見えない。
だが、十数分前に突発的に発生した奇妙な現象。
なら、少し、待っていれば霧散をするかもしれない。
濃霧の中を歩き回るのは危な過ぎるから、少し待ってみようと判断をした賢い人達は避難先のコンビニのガラス越しに、接触事故を起こした車の運転手達の様子を窺う。
しかし、安全とは言い難い場所を歩いている者が一人いた。
仕事帰りのサラリーマンといった程、疲れきった様子は無いが、元気溌剌とはほど遠い。
大学に通いながら、アルバイトで生活費を稼いでいる若者。
蛇原研介は、一目でロボットヒーロー達だと分かる独特のシルエット群が側面に描かれたダンボール箱を抱えながら、足早に帰路を急いでいた。
(濃霧注意報なんて出ていたっけ?)
頭では危険な行為だと分かりつつも、研介は歩きながら、片手でスマートフォンを操作。
そのような事をやっていた為だろうか?
それとも、更に濃くなった霧が異界へ案内したのだろうか?
(此処は何処だ?)
歩き慣れた道のはずなのに、夜間営業している店が一つもない寂れた商店街に入り込んでしまっていた。
手元を見ても、表示されている地図と、周囲の様子があまりに違い過ぎる。
(GPSがおかしくなっている?)
自分の選択を悔やみ、周囲を見回していた若者は、とある自販機の陰に古びた木のテーブルと人影を見つけた。
(こんな商店街だと、昔のドラマで見るような易者もいるんだ)
「あの。すみませ――ッ!?」
(え? カード占い?)
物陰に置かれた古びた木製テーブルの中央には、見ていると眩暈に襲われるそうなデザインが裏面のカードの山があった。
椅子に座っているのも、如何にもな雰囲気を漂わせ、道標を示す年長者でも無い。
視線に気づいた血のように赤黒いドレスを纏った少女が顔をあげると、彼女の長い金髪が霧の中を泳ぐ。
人とは思えない美しい貌立ちだった。
その後ろには白山羊と黒羊という動物の頭を模したマスクを被り、揃いの燕尾服を着た男性達が直立不動で立っていた。
(コスプレの占い屋? いや、そんな事よりも外国人か)
落胆顔で溜め息を吐いていようと足を止めたのだ。
客と誤解されても、仕方が無いことだろう。
「お客様、いらっしゃいませ」
妙に生々しいマスク達の口元が、まるで本当に生きているかのように、自然に動いて、言葉を発する。
非現実的な光景だったが、不可解な霧の中にいる事もあった為だろうか? 研介は自然に受け入れる事が出来た。
「おにいちゃん。何か、占って欲しい事はない?」
二人に続いて、少女も日本語を発した事に研介は安堵の一息を吐く。
(よかった。日本語を話せるのか。この子は十二、三ぐらい? 勉強を頑張っている子なんだ)
流暢に日本語を話す事に驚かせられた事もあってか、半ば御捻りや、親戚の子にお小遣いをあげるつもりで、彼女の対面の椅子にそっと腰を降ろす。
(道を尋ねるだけも悪いし、一、二千円くらいなら)
「じゃあ、お願いをしようかな」
すぐ目の前だったのに、研介は少女が罠にかかった獲物を見るように、とても満足気な笑みを浮かべた事に気づけなかった。
彼女はテーブルの上にカードを広げるや、素早く、だが、傷をつけないように混ぜ合わせ始めた。
(凄い手慣れている。代々、そういう仕事をしている家系なのかな?)
彼女の生活を想像しながら、研介が腰の左ポケットから、財布を引き抜こうとした時だった。
「お代は後で結構です」
まるで二人が実は一つの何かであるかのように、今回もまったく、同じタイミングで、同じ言葉を発した。
カードを一まとめにした少女は頂上の一枚を静かに捲った。
(トランプカードじゃない?)
少女がテーブルの上に静かに置いたのは『崩壊する塔』が描かれたカードだった。
よくよく注意をして見ていたならば、ジョーカーが複数枚混ざっていたとしても、カードの枚数が五十枚よりも多い事に気づけただろう。
「おにいちゃんって、無職なんだ」
少女が勝手に占いを始めた事に研介は戸惑ってたが、すぱっと言い当てられた事の驚きの方が強かった。
「ああ。ついさっき、仕事をクビになってしまったんだ」
(公的には学生って事になるけど、バイトをしているのが普通だからな)
研介は言い当てられた事に不思議や恐怖を感じる事もなく、怒りも感じなかった。
素直に答えたのは、少女の声に侮蔑等の気持ちが微塵も感じられなかった為だろう。
「それは……それは」
執事服の二人は心から同情しているという声を出した。
だが、もし、研介が顔を彼らの方へと向けていたなら――実は彼の不幸を楽しんでいる事に気づけただろう。
そして、この後の彼の運命も変わっていただろう。
それが良い方向か、悪い方向かは別として。
「けれど、それは正しい事をした――つもりの結果なんだよね?」
新たなカードとして、逆さまの『剣と秤を手にした女性』を引いた少女が問いかける。
「ああ。セクハラをしてきた取引先の二代目を殴って、大きな取引を台無しにしたって、無茶苦茶な理由で攻められて……辞めざるをえなくなった垣鍔さんを悪く言った奴らを殴ったから」
「けれど、後悔している?」
三枚目として、『ローブを着た老いた男性』を引いた少女は問いかける――というよりも、裏づけを求めている様子だった。
「ああ」
「おにいちゃんはその人が好きなんだ」
四枚目のカード『手を握り合う男女』を突きつけるように見せながら、少女は楽しげに問いかける。
「だったかな。前に気持ちを伝えたけどさ……『私、二十九だよ。白音もいるし。歳相応の相手を選びなよ』って。あ! 白音ちゃんってのは、垣鍔さんの娘さんで」
「おやおや。横恋慕ですか? 道徳的には良くない事でしょうが……欲望に忠実に生きる事は悪い事ではありませんッ!!」
燕尾服達は水を得た魚のように活き活きした顔で研介に走り寄るや、彼を挟み込んで、左右から早口で一気にまくしたてた。
「いや。白音ちゃんのお父さんは、既に亡くなっているんだ。正義感の強かった人で、近所の子を助けようとして……らしい」
心底、嫌な話を見たと言いたげに顔を顰め、急な寒気に襲われたとばかりに体を縮こませると二人は後退った。
だが、研介は不道徳を好み、その反対を嫌う彼等の振る舞いに気づけないままに話を続ける。
「引っ越しの手伝いに行った時にも……『あのね。家庭を持つって事はさ。君が考えているよりも、何倍もお金がかかるんだよ』って」
現実的な問題もあり、自分の思いは叶わないのだ――と自覚させられた表情と声。
「それに、もう、二人とも」
研介が沈痛な声で吐き出すと、二人は同時に何かに気づいたという顔をした。
「ふーん。引き際も大事だと思うよー」
内心を見透かしつつも、それを踏みつぶすような一言に研介は唇を噛んだ。
(もし、俺に力があったなら……。もっと、でかい仕事につけていたなら、引き留められたし……高速道路で事故に遭う事も)
後悔を露わにした研介の前で、カードがかき回され、やがて、一つの山を作り上げる。
「私の力は分かってくれたよね?」
人とは思えない美しい貌の少女に問いかけに研介は頷いた。
「最初に言ったけれど、占ってあげられるのは一つだけだから、慎重に選んでね」
あらためて釘を刺され、研介は腕を組むと、唸り声をあげながら、宙を見上げる。
苦悩する彼の様子が楽しいとばかりに、少女は人に出来るはずがない。
そのような邪悪な笑貌を向けていた。
「金運とは、違うかもしれないけれど」
研介はそう言うと、大事に抱えていたダンボール箱を傷一つ付けたくないという仕草で、そっとテーブルの上へと置いた。
「正直、貯金もあまりない。だから、これが」
そこで一旦言葉を切ると、自分の言葉が足りないのに今更気づいたという顔になった。
「この中身は初回限定生品で、専門店が高額買取をしているから、これを売って、競馬の元手を増やすべきか? 思い入れのあるアニメのだから、手放さないべきかを悩んでいる」
少女は箱に書かれている制作会社名(株)陽登スタジオと、作品タイトル『賢者ロボ・スペリオー』を一瞥するも、大して興味なさげだった。
「どっちを選ぶべきかを占って欲しい」
少女は今、正に真剣勝負を始めんとばかりに、真面目くさった顔で尋ねた研介の目をじっと見た後、ぷっ――と吹き出すと椅子から転げ落ちた。
茫然とする彼の前で、大慌てで二人組が彼女を助け起こす。
「お、お金に困っているならさ」
やがて、美しい貌の少女は、笑い疲れたという顔で語りかける。
「どのレースが一番、儲けられるのかを占って欲しいとかを言えばいいのに」
「あッ!?」
一度は笑うのを止めるも、研介の素っ頓狂な顔がツボに入ったのだろうか?
聞いていると狂気に陥りそうな笑い声を霧の中に響かせながら、少女は研介に語りかける。
「まぁ、もっとも……。もう直ぐ大事故に遭うお兄ちゃんには関係無い事だけどね」
笑い声をあげながら、同時に当たり前のように会話をする。
人に出来るとは思えない行為をする相手に、迫っている危険を宣告されたならば、直ぐに逃げ去ろうと跳ねるように椅子から、立ち上がるのも致し方の無い事だろう。
だが、後方の安全確認を怠った対価は支払わねばならない。
「うぉぉッ! 危ねェェッ!!」
研介は誰かが叫ぶのを聞き、声のした右手側を向いた。
腰と腹部に猛烈な痛みを感じた直後、叫びをあげる間もなく、その体が宙を舞った。
正確には空中で逆立ちをしているかのように、天と地が逆さまへと変わる。
そして、何が起きたかを理解する間もなく、路面が眼前に猛スピードで迫った。
「ぁがッ」
額を勢いよく叩きつけ、路面に血の染みを作った研介は、落下の勢いを殺せないまま――無防備な体勢で仰向けに倒れていく。
ドガシャァッン。
金属と金属がぶつかりあった音の後、ズサンと重量物らしき何かが落ちた音。
続いて、浜辺で西瓜の割れるような音が夜の路上に響いた。
「くそッ。痛ェ」
濃い霧の中、歩道を猛スピードで走り、研介と衝突した自転車の男が悪態を吐きながら、ゆっくりと起き上がる。
だが、転げ落ちた際に頭を打った影響が出てきたのだろう。
何度か、ふらつくと、結局は路面に座り込んだ。
そして――。
自転車の運転マナーに欠ける男に撥ね飛ばされ、頭を二度も路面で強打した研介は、鼻を突く生臭さと、上着にしみ込んでくる生暖かい液体を不快に思っていた。
だが、どれだけ、そこから逃れようと願おうとも――。
(何だ? 何が起きた?)
体が動かなければ、そこを脱する事は出来ない。
唯一動かせる眼球を痙攣しているかのように不規則に動かしていると、研介の視界に人とは思えない貌の少女が入ってきた。
「事故に遭うって、教えてあげたのに」
その声は血塗れになっている研介を憐れむものだったが、その貌は眼前の惨劇を楽しむ歪んだ笑みに染まっていた。
「ちきしょう! 俺はまた、失敗を」
薄笑いを浮かべる人とは思えない貌の少女に対する怒りより、軽はずみな行動をした自分への怒りで研介は叫び声をあげた。
「次はお兄ちゃんの大好きなアニメの主人公? それとも、狂言回し? のロボット達みたいに賢い選択を出来るといいね」
少女は何時の間にか、取り出していた段ボール箱の中身を手に、今にも意識を永遠に失いそうになっている血塗れの若者に淡々と告げた。
(二人ぉ支ぃられるぁけの力をぃて、ぁう一度、垣鍔ぁんぉ白音ちゃんと会いァ)
死から必死に逃れようとするも、起き上がれない研介を迎えに来たのだろうか?
それとも、死を目前にしている彼に助けを求める程、追いつめられていたのだろうか?
霧の中から、薄っすらとした誰かの手が伸びるのが見えると、彼も真っ赤に染まった右手を半ば無意識に伸ばしていた。