9 鎌倉の群雄
本小説の参考文献は、ほぼウィキペディアですが、本章は、特に全面的にウィキペディアに頼っております。
京の都を本拠として、清盛の血縁に沿って朝廷の高い官位の多くを一門が占めることによって、政治を行った平家。
それに対して、頼朝は、その本拠を鎌倉に定め、京の朝廷の掣肘を受けない独立した政権の確立を目指した。
朝廷は、寿永二年(1183)十月宣旨で、東国からの貢納の保証を条件として、頼朝に対し、東国の支配権を公認した。
そして、三月に平家一門が壇ノ浦で滅亡した同年、文治元年(1185)十一月、北条時政による奏請に応じて、朝廷は、頼朝に対し、諸国への守護、地頭職任免の権限を勅許した。
以前は鎌倉幕府の創設は、頼朝が朝廷より征夷大将軍の宣下を受けた建久三年(1192)とされていたが、今はこの文治元年(1185)をもって鎌倉幕府の成立年とする説が有力なようである。
義経が、平泉、衣川の地で自害した文治五年(1189)、閏四月の時点での、鎌倉政権のその組織と陣容について、記述する。
文官は、頼朝と、それまでに何らかの縁があった京の中級、下級貴族出身者が多かった。
武家政権である鎌倉に、政務に長けた人材は乏しかった。頼朝は、彼らを鎌倉に招聘し、彼らも京において、さしたる権限もなしに文官として燻ぶるよりは、と、この招聘に応じたのであった。
一般的な政務、財政を担当する公文所の別当(長官)は、大江広元、四十二歳。
広元の兄、中原親能は、四十七歳(姓が異なるのは養家の関係)。少年時代から頼朝と親交があり、頼朝挙兵直後に、その元に馳せ参じ、頼朝の側近となった。
以降、対朝廷の渉外担当の役割を務めた。
また、公文所の寄人(上級職員)でもあった。
大江広元が、鎌倉に下ったのも、有能な弟も鎌倉政権下に招き入れたいとの親能の意向が働いたからである。
訴訟に関する事務を担当する門注所の執事(長官)は、三善康信、五十歳。朝廷の太政官の書記官役を世襲する下級貴族。
母が頼朝の乳母、比企尼の妹で、その関係から伊豆に流人となった頼朝のもとに、頻繁に京の、情勢を知らせていた。
寿永三年(1184)、頼朝に望まれ鎌倉に下向した。
彼ら以外では、二階堂行政、足立遠元が、鎌倉政権の政務の中枢を担当した。
武家政権である鎌倉の、その武を担う有力御家人については、箇条書きにして、その主な経歴を記す。
・北条時政、五十二歳。
頼朝の正室、北条政子の父。
伊豆地方豪族。蛭ヶ小島に流人となった頼朝の監視役を務める。
長女、政子が頼朝と結ばれたことにより、頼朝が挙兵して最初に行った、目代、山木兼隆襲撃から、その協力者となる。
長男の宗時は、頼朝挙兵後の石橋山の戦いの敗戦後、逃亡途上で討たれる。
やはり頼朝挙兵当初から従軍した次男義時は、幼少時、分家の江間家に養子に行っており、江間の姓で呼ばれることも多かった。
平家一門が滅亡した同年、文治元年(1185)十月。
その時期においては、京において兵威を保持していた義経の要請を拒めず、後白河法皇は、頼朝追討の院宣を義経に下した。
が、義経の募兵に応じる者はほとんど無く、翌十一月初頭には義経は離京して逃亡の身となった。
その十一月下旬、北条時政は、頼朝の命により、千騎を率いて入京。
義経への院宣宣下を咎め、朝廷と交渉。
本章で既述した、諸国の守護、地頭の任免権を鎌倉政権が獲得することに成功した。
そのあとは、京都守護として都の治安維持に務めた。
翌文治二年(1186)三月、その職務を京の上級貴族、一条能保に引き継ぎ離京。鎌倉に戻った。
・千葉常胤、七十二歳。
千葉県のその県名の由来となっている千葉氏は、総州の有力豪族であった。
挙兵後、石橋山の戦いで、一敗地にまみれた頼朝は、少数の武者とともに海上を安房国に逃れた。
千葉氏の当主であった常胤は、頼朝からの加勢要請に応え、以降、頼朝幕下の重鎮となった。
・三浦義澄、六十三歳。
三浦半島を基盤とする豪族、三浦氏の当主。千葉常胤同様、頼朝が、房総半島に逃れた時期からその幕下に入る。千葉常胤と並ぶ宿老。次男が義村。
・比企能員
頼朝の乳母、比企尼の甥で、その猶子となり、比企一族の家督を継ぐ。
頼朝の嫡男、頼家の乳母父。
姫の前の父、朝宗は、能員の兄弟。
・安達盛長 五十五歳。
比企尼の長女、丹後内侍が妻。頼朝に流人時代から仕える。妻がかつて宮中の女房であったことから京に知人が多く、都の情勢を頼朝に伝える。
頼朝の信頼篤い側近。長男は景盛。
・土肥実平
相模国土肥郷を本拠とする。頼朝挙兵当初から、馳せ参じる。
一ノ谷の合戦では、搦手軍である義経軍に属する。
総勢一万騎であった軍。義経は、内三千騎により、鵯越の逆落としを敢行。実平は、残りの七千騎の指揮を任せられる。
一ノ谷の合戦のあと、平清盛の妾であった厳島内侍をおのれの妾とする。
・梶原景時 五十歳。
石橋山の戦いでは、頼朝追討に向けられた大庭景親の陣中にあり。
戦いに敗れた頼朝が、土肥実平、安達盛長など数人の家臣とともに潜む洞穴で頼朝を見出すが、見逃したという逸話がある。
義経軍の軍監となるが対立。義経の独断専行ぶりを鎌倉に詳細に報告。
侍所所司(次官)
教養があり、和歌を嗜んだ。
嫡男は、宇治川の合戦において、佐々木高綱と馬に乗ったまま川を渡った、宇治川の先陣争いの逸話で有名な源太景季(二十八歳)。
・和田義盛 四十三歳。
三浦氏の一族。相模国三浦郡和田の里を本拠とする。石橋山の合戦には間に合わなかったが、頼朝が安房国に到着した時点から、従軍。
平家一門との戦いでは、大手軍の総大将、源範頼の軍奉行を務める。
軍務を担当する侍所の別当(長官)。
・八田知家 四十八歳。
保元元年(1156)の保元の乱に十五歳で参陣。
頼朝挙兵の際も早期に参陣。
平家討滅戦では、範頼率いる大手軍に従軍。
検非違使に任官された義経同様、平家滅亡後、右衛門尉に無断任官し、頼朝から激しい叱責を受ける。
・畠山重忠 二十六歳。
秩父氏の一族。武蔵国男衾郡畠山郷を領す。頼朝挙兵の際は平家方に属したが、後に帰順。
宇治川の合戦では、木曾義仲の愛妾で女丈夫の巴御前と一騎打ち。その怪力により、巴の鎧の袖を引きちぎる。
一ノ谷の合戦では、義経軍に属す。鵯越の逆落としでは、いつも苦労をかけているからと、愛馬を背負って、駆け下ったと言い伝えられる。
・源範頼 四十歳。
源義朝の六男。頼朝の異母弟。義経の異母兄。
遠江国蒲御厨で育ったため、蒲殿と呼ばれる。
宇治川の合戦、平家討滅戦では、大手軍の総大将を務める。
・阿野全成 三十七歳
源義朝の七男。義経の同母兄。
平治の乱で、夫、義朝敗戦の報を聞いた常盤御前は、七歳の今若丸(阿野全成)。 五歳の乙若丸(源義円)を左右の手に引き、生まれたばかりの牛若丸(義経)を、胸に抱いて落ち延びたと伝えられる。
幼くして出家。全成と名乗る。
頼朝挙兵後、義経よりも早期に参陣。
北条政子の異母妹、阿波局を妻とする。
尚、義円も挙兵後、参陣するが、治承五年(1181)、二十七歳で戦死。
こうやって書いてみると、義経は、ちゃんと義朝の九男ですね。
無双の豪傑である、叔父の鎮西八郎為朝に遠慮して、八男でありながら、九郎を名乗ったというのは、物語を作る上での脚色だったようです。