7 衣川
源頼朝の要請により、朝廷は藤原泰衡に対して、義経追討の宣旨を下した。
秀衡の遺命に従い、泰衡は、この宣旨に従わなかった。
義経もまた泰衡に対し、その秀衡の遺命の履行を迫った。
対鎌倉戦に備える。我に兵権を与えよ、と。
「九郎君、なぜそのように、いくさあるを前提として、物事を考えられるのか。この百年、父、秀衡の代に至るまで、関東がこの奥州に攻めいってきたことはないではありませぬか」
「前にも言ったであろう。それは、西に平家があったから。平家をそのままに、奥州と戦端を開くとなれば、関東は、東西両面に敵を持つことになる。それは軍略として愚の骨頂。
が、今は平家は無い。関東は、その総力を挙げて奥州と戦うことができる」
「しかし、平家が滅亡したのは、もう三歳の余も前のことではありませぬか。九郎君の言われることが正しければ、関東は既にもう何らかの行動を起こしておりましょう。しかし、平家滅亡の後も、この奥州にはいっさい手を出してきてはおりませぬぞ」
ー それは、兄、頼朝が、秀衡殿の器量を認めていたからだ。
とは、義経には言い難かった。今、義経に従うのは股肱の家臣、十数名のみ。
何と言っても、今、兵権はこの泰衡のもとにあるのだ。
その機嫌を損ねることなく、兵権を譲渡してもらわねばならない。
「もし、仮に、いくさになるとすれば、鎌倉軍はこの奥州の倍にもならんとする兵を整えましょう。いったいいかなる軍略を持って戦われるのか」
「奥州十七万騎の大半は、泰衡殿、国衡殿に委ねる。儂は二万騎、いや一万騎でよい。それだけの兵を儂に預けてくれ。それで、鎌倉を散々に撃ち破ってみせようぞ」
「具体的にはどうやって」
義経は、思わず、泰衡の顔を凝視した。
そして、黙ったまま、同座している国衡の顔も見た。
国衡もまた、義経に、今の泰衡の問いに対する答えを求める表情をしていた。
ー こいつらは馬鹿だ。いくさを知らない。今のこの奥州の太平と繁栄が、いつまでも続くと思っているのだ。
ー いくさには戦機というものがある。
それは戦いが始まり、戦いの中で、相対する両軍がいくさをどう動かしていくか、その展開の中で、今がその時、というものが見えてくる。
ー その戦機に持てる力を集中し、疾風のように動かし、相手が崩壊に至る一点を撃滅するのだ。
ー 具体的に、図面で、その戦機を示せというのか。
いくさの天才、九郎義経は、馬鹿馬鹿しくなった。
天才には、常人の思考の手順は理解できなかった。
もうそれ以上は何も言わなかった。
ー いくさに臨めば、あざやかに勝利する。それだけのことではないか。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦。儂はどのいくさも、ひとたび戦機を見出だせば、日を跨ぐこともなく勝ち続けた。
三種の神器の紛失、朝廷からの官位の直接受任。それが何だというのだ。そんなどうでもよいことのために、儂の大勝利は、鎌倉によって汚された。
この世の細々とした仕来り、約束ごと。くだらん。
儂は、ただただいくさに専心したい。それだけが望みなのに、なぜそうさせてはもらえぬのだ。
奥州の総力を挙げて、鎌倉と戦う。
泰衡、国衡をその気にさせる。
くだらん、と、義経は思った。なぜこの儂がそんなことにまで、この身を使わなければならないのだ。
義経は、おのれをそのあるがままに容れようとはしない、愚物ばかりのこの現世を嫌悪した。
泰衡に対する朝廷からの義経追討の宣旨は、執拗に繰り返された。
何度めかの宣旨で、義経追討を果たせば、藤原氏による奥州支配の継続を保証するとの起請文が付けられていた。
その起請文を見た瞬間、泰衡は、安堵の気持ちが心に広がっていくおのれを感じた。
自分はその言葉を待っていたのだ、ということが分かった。
ー 九郎君は、いくさ神の化身。かの君あるところにいくさは起きる。九郎君さえ亡くば、生まれ落ちてから自分が馴染んできた奥州が、これからも続くのだ。
文治五年(1189)、閏四月三十日。
平泉、衣川の、義経の居する館が、数百人の兵に取り囲まれた。
十数名の股肱の臣が、盾となり守る間に、義経は、自らは戦うことなく、持仏堂に籠り静かに自害した。享年三十一。
その脳裏に最後に浮かんだのは、一ノ谷、屋島、壇ノ浦において、兵たちを率いて疾駆するおのれの姿だった。