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北条義時  作者: 恵美乃海
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69 今は義時思ふ事なし

 軍記物語である『承久記』によれば、勝利の報を受け取った義時は

「今ハ義時思フ事ナシ。義時ハ果報ハ王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル(今は自分に思い残す事はない。この義時の前世からの果報は王の果報に勝っていたのだ。この世に報われる善行が一つ足りなかったために、卑しい身分に生まれたに違いない)」と公然と述べたという。


 一方、幕府編纂書の『吾妻鏡』にこの記述はなく、幕府軍が鎌倉を発った直後の6月8日、義時の邸に雷が落ち、下働きの男が一人死亡した。

 これを恐れた義時は大江広元に

「朝廷を倒すための上洛でこのような怪異が起きた。幕府の運命もこれまでという前兆だろうか」

 と尋ね、

 広元は

「君臣の運命は天地が定めるものであり、何も恐れる事はない。かつて勝利を収めた奥州合戦では落雷があった。幕府にとって落雷は吉兆である」

 と返答して狼狽する義時を宥めた。


 そして陰陽師を呼び占わせたところ、結果は最吉と出た、という話が描かれている。この話は、義時が神の末裔である皇族に弓矢を引くことに恐怖を感じていたこと、天皇を絶対的な権威とする当時の『常識』を、義時もまた持っていた証であると指摘されている。


 北条義時は、

 乱の翌年に陸奥守と右京権大夫を辞職し、無官となっている。


 貞応2年(1223年)、将軍御所であった大倉幕府が手狭であることから拡張することが議論となっている。


 承久元年12月に発生した火災で三寅の邸宅とされた大倉御所と政子の邸宅である亡き実朝の私邸が共に焼失したため、三寅・政子共に大倉御所の東隣の義時邸にて生活し、義時は大倉御所の西の大路を挟んだ反対側にある在京中の泰時に譲った邸宅(三浦義村邸の南隣でもある)に住んでいた(貞応2年当時、大倉御所に建物が再建されていたかどうかには議論がある)。


 義時はこの計画自体に賛同して、政子を勝長寿院内に建てた御所に移しながら、最終的には陰陽師の判断を理由に計画を先送りにしてしまった。


 これは政子と三寅を引き離すことに成功させて自らの三寅への影響力を強めると共に移転計画の利用して発言力を強めようとした三浦義村への牽制を意図していたと考えられている。


 元仁元年(1224年)に入ると、義時は自身の健康長寿などを願って3月19日から100日間の泰山君府祭を開始した一方で、同じ日に甘縄山麓の南側で大火があり、千葉胤綱邸まで類焼している。


 また、4月27日には、三寅の手習始の儀が行われて、義時は一条実雅と共に中心的な役割を果たすなど、精力的な活動を続けていた。


 ところが、6月13日、義時は62歳で急死した。

『吾妻鏡』によれば衝心脚気のためとされるが、偉大な幕府指導者の急死であったため憶測を呼び、後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞(『明月記』)があった他、近習の小侍に刺し殺されたとの異説(『保暦間記』)もある。


 なお、義時の別称は得宗と呼ばれ、以後の北条氏の嫡流の呼び名となった。

 得宗の語源は義時の法名にちなむとも言われるが、はっきりしない。

『吾妻鏡』に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」とあり、近年北条義時法華堂跡の発掘調査が行われた。

 なおこの時代に義時クラスの者がやぐらに葬られた記録はない。


 義時の墓は臨済宗建長寺派の北條寺境内にあり、泰時が建てたものと伝えられている。

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