68 承久の乱 その4
7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇(承久4年(1221)第三皇子で4歳の懐成親王に譲位(仲恭天皇))は佐渡島にそれぞれ配流された。
討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。
後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流された。
仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈諡は明治以降/母は順徳天皇の中宮、九条立子(九条良経の娘、九条兼実の孫))は廃され、行助法親王の子が即位した(後堀河天皇)。
親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。
後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。ただし、その支配権は幕府が握っていた。
討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。
また藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高、河野通信ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。しかし大江親広は父広元の嘆願もあり赦免されている。
乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。
朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。
京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。
承久の乱ののち、朝廷は幕府に完全に従属した。
幕府は朝廷を監視し、皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。
院政の財政的基盤であった八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻されたあともその最終的な所有権は幕府に帰属した。
承久の乱には、鎌倉と京都の二元政治を終わらせて武家政権を確立する意義があったとする学者もいる。
鎌倉幕府の御家人で源氏一門(御門葉)の重鎮であった大内惟信は、敵方である後鳥羽上皇に味方し敗死し、源頼朝が最も信頼を置いていた平賀氏・大内氏は没落することになる。
山本七平の「日本史上最大の事件」という意見もある。
処刑された院近臣の多くは後鳥羽上皇の支持を受けて家格の上昇を目指した家々であったが、これによって挫折を余儀なくされ、衰退もしくは没落することとなり、院近臣層の構成にも変化が見られるようになった。
これは父親が初めて大臣となり、自身の昇進も類似した経歴をたどっていた坊門忠信(挙兵派)と西園寺公経(反対派)およびその子孫のその後が、この乱を機に大きく分かれていることが物語っている。
また、西国で京方の公家、武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、多くの東国御家人が西国に所領を獲得し、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。
承久の乱の翌年に生まれた日蓮は、この事件を「先代未聞の下剋上」として捉えた。
この時の朝廷には既に国家を統治する力がなかったとし、「王法すでに尽ぬ」と解釈した。
日蓮は、自身の持つ東国人の京都への反発も含め、鎌倉幕府(=北条得宗家)こそが真の「日本の国主(国王)」であると考えており、数々の弾圧にもかかわらず国家諌暁の対象を鎌倉幕府にのみ行い、京都や朝廷に対する自己の教えの布教には消極的あるいは否定的であったとする見方がある。




