63 雪の鶴岡八幡宮
建保5年(1217年)6月20日、園城寺で学んでいた頼家の次男、公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に就く。
この年、右大将の地位を巡って西園寺公経と大炊御門師経が争い、公経が後鳥羽上皇の怒りを買った際に実朝が遠縁である公経のために取りなした。
上皇は内心これを快く思わず、実朝と上皇の間に隙が生じたまま改善されなかったとする見方がある。
建保6年(1218年)1月13日、実朝は、権大納言に任ぜられる。
2月10日、実朝は右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。
右大将はかつて父が補任された職で、左大将はその上位である。
同月、政子が病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣。政子は京で後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面したが、『愚管抄』によればこの際に実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを政子が卿局に相談した。
卿局は養育していた頼仁親王を推して、2人の間で約束が交わされたという。
3月16日、実朝は左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。
10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。
武士としては初めての右大臣であった。
21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。
26日、随兵の沙汰を行う。
建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。
夜になり神拝を終え退出の最中、
「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ実朝は落命した。享年28(満26歳没)。
公暁は次に源仲章を切り殺したが、『愚管抄』によるとこれは北条義時と誤ったものだという。
『吾妻鏡』によれば、御所を発し八幡宮の楼門に至ると、義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを仲章に譲った。一方、『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により、太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しなかった。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。
『吾妻鏡』によると、予見が有ったのか、出発の際に大江広元は涙を流し
「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」
と述べたが、
仲章は
「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」
と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。
庭の梅を見て詠んと伝わる辞世の和歌は、
「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で「禁忌の和歌」と評される。
落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わる。
『承久記』によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。
28日、妻は落餝し御家人百余名が出家する。『吾妻鏡』によると亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺したとあるが、
『愚管抄』には首は岡山の雪の中から見つかったとある。
実朝には子が無かったため、彼の死によって源氏将軍および河内源氏棟梁の血筋は断絶した。




