62 渡宋を夢みる実朝
建保4年(1216年)6月8日、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧・陳和卿が鎌倉に参着し
「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。
15日、御所で対面すると陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。実朝が不審を感じると陳和卿は
「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」
と述べる。
実朝はかつて夢に現れた高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿の言を信じた。
実朝は、6月20日、権中納言に任ぜられ、7月21日、左近衛中将を兼ねる。
9月18日、北条義時と大江広元は密談し、実朝の昇進の早さを憂慮する。
20日、広元は義時の使いと称し、御所を訪れて
「御子孫の繁栄の為に、御当官等を辞しただ征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将を兼ね給うべきか」
と諫めた。
実朝は「諌めの趣もっともといえども、源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」
と答える。
広元は再び是非を申せず退出し、それを義時に伝えた。
11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。
義時と広元は頻りにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。
建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向って曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。
なお宋への関心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、円覚寺の舎利殿に祀られている。また渡宋を命じられた葛山景倫は後に実朝の為に興国寺を建立したという。




