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北条義時  作者: 恵美乃海
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60 順徳天皇の即位

 寵妃藤原重子(修明門院)を母として生まれた後鳥羽上皇の第三皇子、守成親王は、

 正治2年(1200年)4月に土御門天皇の皇太弟となる。


 摂政となっていた九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(皇太弟)、守成親王の妃にするように命じた(『愚管抄』巻6)。


 更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた、後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王(新古今和歌集の撰者、藤原定家とも親密な関係であった)を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准母として上皇の後継者としての地位強化を図った。



 後鳥羽の中宮であった九条任子の唯一の子、昇子内親王は、八条院(後白河法皇の妹)の養女となり八条院のもとで育てられた。


 建久7年(1196年)正月、病床にあった八条院は、膨大な八条院領のほとんどを昇子内親王に譲るという内容の譲状を作成しているが、その後八条院は病気から回復した。


 昇子内親王は、同年4月、一品准三后となり、

 承元2年(1208年)8月8日、異母弟の東宮守成親王の准母となり皇后宮に冊立される。

 それは昇子内親王が、莫大な八条院領の相続人であったからであろう。


 承元3年(1209年)4月25日、昇子内親王に院号宣下があり春華門院となる。


 承元4年(1210年)11月後鳥羽上皇の強い意向により、皇太弟、守成親王は、土御門天皇の譲位を受けて践祚し14歳で即位する(順徳天皇)。


 土御門天皇は温和な性格であり、幕府との関係上、天皇が土御門では心許ないと考えた後鳥羽が退位を迫り、強い性格であった守成親王に譲位させたのであった。


 摂政、九条良経の娘を土御門天皇ではなく、皇太弟、守成親王の妃とさせたこと。

 八条院領の相続人、昇子内親王を守成親王の准母としたことは、譲位の布石であったろう。


 上皇となった土御門に実権はなく、後鳥羽上皇が変わることなき、治天の君であった。



 建暦元年(1211年)6月26日、八条院が75歳で薨去し、その所領は昇子内親王(春華門院)がその大部分を相続したが、昇子内親王も同年11月8日に17歳で崩御した。


 八条院領は、昇子内親王が准母となっていた順徳天皇が相続することとなった。


 昇子内親王が亡くなられたとき、九条任子(宜秋門院)は39歳になっていたが、その知らせをどのような気持ちできかれただろうか。


 九条兼実のその後についても記す。


 土御門通親死後の

 建仁2年(1202年)12月に摂政となった次男の良経は、元久3年(1206年)3月に38歳で急死する。


 兼実は孫の道家を育てることに残る情熱を傾けた。


 建永2年(1207年)2月に起こった専修念仏の弾圧(承元の法難)では、師である法然の配流を止めることはできなかったが、配流地を自領の讃岐に変更して法然を庇護した。


 その直後の4月5日、兼実は59歳で薨御した。京都法性寺に葬られ、墓は東福寺にある。


 北条義時の正室であった姫の前が、同じ京の地で亡くなったのは、同じ年の3月29日である。


 九条兼実と姫の前は、数日違いで相次いで亡くなったことになる。


















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