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北条義時  作者: 恵美乃海
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59 人丸の後の歌よみは誰かあらん征夷大将軍源実朝

 元久2年(1205)9月、14歳の源実朝は、後鳥羽上皇の命によって編纂され、藤原定家が撰者となった「新古今和歌集」を京より運ばせる。


「新古今和歌集」はその時点では未だ公には披露されていなかったが、実朝は和歌を好み、「新古今和歌集」には、父、源頼朝の詠んだ和歌も入集していると聞き、見る事を強く望んだのである。


(以下の出典は、「万葉歳時記一日一葉 6月14日 」の項です。慈円について(九条兼実の弟、天台座主)は、作者の補筆です)


 陸奥みちのくの いはでしのぶは えぞしらぬ

 ふみ尽くしてよ 壺のいしぶみ

 ~源頼朝 『新古今和歌集』 巻18-1786 雑歌下


 陸奥のいわで、しのぶの地からは蝦夷地が分からぬのと同じように、

 ちゃんと手紙に書いて下さらぬとわかりません。

 壺の碑に彫るのとは違うのですから。


 頼朝の教養の高さを示すような技巧的な歌です。

 これは当時の大僧正慈円(九条兼実の弟、天台座主)

 の手紙に対する頼朝の返書にある一首。


 慈円の手紙には「手紙では意を尽くさない」との文言があったので、言いたいことははっきり書けと言っているわけです。


「いはで」は今の岩手の由来、「信夫」も地名でともに陸奥の歌枕です。


「言わで」「忍ぶ」の掛詞になっています。


「えぞしらぬ」は理解しかねるの意味。もちろん「蝦夷知らぬ」との掛詞です。


 藤原氏が治めていた奥州までを支配地として認識していたのですね。同じ鎌倉時代でも、もう少し時代が下って、13世紀初頭の歌にも蝦夷地が出てきます。


(引用終わり)



 建永元年(1206年)2月22日、実朝は、従四位下へ昇り、10月20日には母、北条政子の命により兄・頼家の次男である善哉を猶子とした。


 

 源実朝の歌人としての才能については正岡子規が以下のような短歌を詠んでいる。


 * 人丸の後の歌よみは誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝


(作者注 人丸は柿本人麻呂)



 また正岡子規は、その著書「歌よみに与ふる書」で、実朝について以下のように記述している。


 ” (おおせ)せの如く近来和歌は一向に振ひ不申(もうさず)候。

 正直に申し候へば万葉以来実朝(さねとも) 以来一向に振ひ不申候。

 実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからとういふ処にてあへなき最期を遂げられ誠 に残念致し候。

 あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。



 東重胤は、正治元年(1199年)の梶原景時の変で御家人66名による弾劾署名が行われた時、この中に名前を連ねている人物であるが、

 新将軍となった実朝の近習として頭角を現す。


 これは重胤が、歌の名手として名前の高かった父胤頼から手ほどきを受けており、歌人としての才能があったからである。


 実朝の重胤の寵愛振りを示す出来事として『吾妻鏡』では建永元年(1206年)11月に、重胤が下総国の東荘(現在の千葉県東庄町)に帰ってしまい、なかなか帰ってこないので重胤に和歌を送って帰国を促した。


 なおこの時に実朝が、重胤に対して帰国を促した歌は『金槐和歌集』(源実朝の歌集)に集録されている。


 こむとしもたのめぬうはの空にたに 秋かせふけば雁はきにけり


 いま来むとたのめし人は見えなくに 秋かせ寒み雁はきにけり


 しかし、実朝の歌を受け取ってもなお重胤が鎌倉に帰参しなかったため、重胤は実朝の勘気を蒙ってしまうこととなる。


 この後については『吾妻鏡』によると以下の内容となる。


 翌月重胤は北条義時の元を訪れ事の詳細を相談する。


 義時は重胤に対して自分が取り成すから実朝に対して和歌を送るように勧める。


 義時が持参した重胤の歌を実朝は大層気に入って3回も吟じ、勘気を解かれる。重胤は義時に感謝し「子葉孫枝、永く門下に候すべき」と誓う。



 以下も、ウィキペディアの源実朝の項の抜粋である。


 承元元年(1207年)1月5日、実朝は、従四位上に叙せられる。


 承元2年(1208年)2月、実朝は疱瘡を患う。

 実朝はこれまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していたが、以後3年間は病の痕を恥じて参拝を止めた。


 幕府の宗教的な象徴である鶴岡八幡宮への参拝は将軍の公的行事の中でも最も重要なものの1つであり、その期間の実朝は疱瘡による精神的打撃から政務のほぼ全般を行い得なかったのではないか、と推測する見解もある。


 同年、12月9日、正四位下に昇る。


 承元3年(1209年)4月10日、従三位に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。


 7月5日、和歌三十首の評を藤原定家に請う。


 11月14日、北条義時が郎従の中で功のある者を侍に準ずる事を望む。

 実朝は許容せず、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇を企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべからざる」と述べる。

(作者注 そのような者まで侍に取り立てると、子孫はその元々の身分も忘れ、幕府に当たり前のように出入りするようになるぞ。許すわけにはいかぬ。と言うような意味か? 違っていたらすみません)


 しかし後に、北条氏の家人は御内人と呼ばれ幕府で権勢を振るう事となる。


 建暦元年(1211年)1月5日、正三位に昇り、18日に美作権守を兼ねる。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し、22日には受戒の為上洛した。


 建暦2年(1212年)6月7日、侍所に於いて宿直の御家人が闘乱を起こし二名の死者が出る。


 7月2日、実朝は侍所の破却と新造を望み、不要との声を許容せず、千葉成胤に造進を命じる。


 12月10日、従二位に昇る。

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