56 牧氏の変
元久2年(1205)閏7月、時政と牧の方は実朝を廃して、頼朝の猶子でもあった平賀朝雅を新将軍として擁立しようとする。政権を牛耳るためとはいえ、時政と牧の方のこのようなあまりにも強硬な策は一族の北条政子・北条義時らの反感を招いた。
19日に政子・義時らは結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。時政側についていた御家人の大半も義時に味方したため、陰謀は完全に失敗した。
なお、時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする見解もある。
義時は、姉・政子と協力し、三浦義村の協力も得た。
幕府内で完全に孤立無援になった時政と牧の方は閏7月20日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった。
時政を追放した義時は、父に代わって政所別当の地位に就いた。
義時は常に政子と実朝を表面に立てながら、政所別当・大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛らと連携し、幕政の最高責任者として実権を握ったのである。
閏7月26日には朝雅も京都守護として滞在していた京で、幕府の実権を握った北条義時の命をうけた山内首藤通基によって殺害された。
武蔵国は有力者の畠山重忠、さらには平賀朝雅の排除によって、義時が信頼する弟の時房が同国の守護・国司となった。
朝雅誅殺後、儀式における序列も、長年にわたり源氏門葉として御家人首座にあった平賀氏を凌ぎ、義時が第一位を占めるようになる。
北条義時は、第2代執権となった。
鎌倉幕府は、北条政子と北条義時がその覇権を握った。




