55 畠山重忠の乱
政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。
翌元久2年(1205年)4月11日、鎌倉に不穏な形勢ありとして御家人たちが集まりはじめ、所領の武蔵国に隠居していた稲毛入道重成が舅の時政に呼ばれ、郎党を引き連れて鎌倉へやって来た。何か起こるのではないかとの噂が流れたが、この騒ぎは静まり5月3日には大半の御家人が帰国した。
翌元久2年(1205)6月21日、平賀朝雅は畠山重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴し、牧の方はこれを重忠父子の叛意であると時政に訴えた。
時政が義時と時房(義時の異母弟)に畠山重忠討伐を相談すると、2人は重忠の忠勤を訴えて謀反など起こすはずがないと反対したが、牧の方の兄大岡時親に
「牧の方が継母で、日頃からよく思っていないからそういうことを言うのだろう」と迫られ、やむなく義時は重忠討伐に同意したという。
翌22日早朝、鎌倉は大きな騒ぎとなり、軍兵が謀反人を誅するべく由比ヶ浜へ先を争って走った。
同じ秩父氏の稲毛入道に招かれて鎌倉にいた重保も郎従3人と共に由比ヶ浜へ駆けつけると、時政の意を受けた三浦義村が佐久間太郎らに重保を取り囲ませる。
自分が謀反人とされている事に気づいた重保は奮戦したが、多勢に無勢で郎党共々殺害された。
時政の命により、鎌倉へ向かっている畠山重忠を道中で誅殺するべく大軍が派遣された。
大手の大将軍北条義時に
先陣・後陣に
・葛西清重
・三浦義村
・八田知重
・安達景盛
など数多くの御家人が従った。
別動軍の大将は、北条時房、和田義盛が大将となり、鎌倉を出陣した。
畠山重忠は鎌倉に騒ぎがあると聞き6月19日に菅谷館を出発、22日午後、二俣川で討伐軍に遭遇した。
重忠の弟長野重清は信濃国、六郎重宗は奥州へ行っており、重忠が率いていたのは二男の重秀、郎従本田次郎近常、乳母父の榛沢六郎成清以下130-40騎程度に過ぎなかった。
その日の朝、重保が殺された事、自分に追討軍が差し向けられた事を二俣川で初めて知った重忠は、館へ退くことはせず潔く戦う事が武士の本懐であるとして大軍を迎え撃つ決断を下す。
そこへかつての旧友安達景盛と主従七騎が先陣を切って突入し、義時の大軍と少数の兵で応戦する重忠主従との激戦が4時間余り繰り広げられたのち、重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれ、首級を取られた(享年42)。
重忠の死を知った重秀以下は自害した(重秀・享年23)。『愚管抄』では重忠は自害したとしている。
23日午後2時頃、軍勢を鎌倉へ引き上げた義時は、合戦の様子を聞いた時政に対し、重忠の一族は出払っていて小勢であり、謀反の企ては虚報で、重忠は無実であった。その首を見ると涙を禁じ得ず、大変気の毒な事をしたと述べた。
時政は黙って引き下がった。この日の夕方、鎌倉内で重忠の同族で討伐軍に加わっていた稲毛重成父子、榛谷重朝父子が重忠を陥れた首謀者として三浦義村らによって殺害された。
7月8日、少年の将軍源実朝に代わり、尼御台・北条政子の命により、畠山氏の所領は勲功として重忠を討った武士たちに与えられ、同20日にも政子の女房たちに重忠の遺領が与えられた。




