54 時政嫡男の死、そして娘婿と外孫の諍い
13歳となった第3代征夷大将軍、源実朝に対して妻を迎えることが取計われた。
関東の御家人の中でも源氏の流れに連なる名門、足利義兼の娘がその候補として挙げられたが、実朝は肯んじなかった。
京の文化に憧れる実朝は、
― 京の公卿の娘を妻としたい。
と望んだ。
もし、許されるなら皇室に繫がる娘を妻としたかったかもしれない。
選ばれたのは、この年、権大納言を辞したばかりの坊門信清の娘、12歳の信子であった。
坊門信清は、のちに正二位・内大臣となる人物である。
そしてその同母姉殖子は、後鳥羽上皇の母。
つまり坊門信清は後鳥羽上皇の外叔父であった。
信清の息子のひとりは後鳥羽上皇の寵臣。
娘のひとりは後鳥羽上皇の女房であったが、早くから上皇に寵され、その第二皇子、第三皇女、さらに皇子と三人の子の母となっている。
後鳥羽上皇の子を産んだ后妃は少なくとも13人いるが、ひとりの后妃が産んだ子の人数では3人というのが最も多く、女院高倉重子、舞女姫法師とこの坊門信清の娘が子を3人産んでいるので、後鳥羽上皇の后妃の中でも寵愛は厚かったと思われる。
坊門信清の別の娘は、後鳥羽上皇の子で、のちに順徳天皇となる方の女房となり、やはり寵され皇女を産んでいる。
上記の舞女姫法師だが、舞女というのは白拍子である。白拍子は男装して舞うが、望まれれば夜をともにする遊女でもあった。
姫法師は、後鳥羽上皇の宴席で舞い、その目にとまったのであろう。
源義経の愛妾として有名な静御前も白拍子の出身である。
実朝の妻となることとなった坊門信子の父、坊門信清は後鳥羽上皇と幾重にも縁を持った人物であった。
この坊門信子を迎えるため鎌倉から御家人の一行が上洛する。
その中に、北条政範と、畠山重忠の嫡男、畠山重保がいた。畠山重保の母は北条時政の娘なので、重保は時政の外孫である。
北条時政は、嫡男と見込んでいる政範に上洛の機会を与え、その将来に向け晴れがましい場に立たそうとしたのであろう。
元久元年(1204)11月4日、京の平賀朝雅の邸で、この御家人一行の歓迎の宴席が設けられた。
この席上で、平賀朝雅と畠山重保が激しく口論する。周囲のとりなしでその場は何とか収まったが、遺恨は残った。
そして翌11月5日、北条政範が病により急死する。
平賀朝雅と畠山重保の口論の原因は何だったのかについては記述がない。
そして政範の急死。状況的には北条義時の関与が疑われそうだが、京で起こったことということもあってか、その疑惑に関する記述は見いだせなかった。
政範の死は不審な点のない文字通り病による急死と見られていたようである。
政範の死。そして朝雅と重保の口論の理由。
その口論はこのあとに起こる事件の原因となるので、
色々と想像して小説的脚色を行うべきことかなとは思う。
が作者は本作品の継続、かなり精神的負担になってきておりますので、このあと何が起きたかは、次章と次々章で、またウィキペディアを借りて記載させていただきます。
が、この事件について作者は疑問に感じることがあ
ります。
その疑問については、さらにその次章で記述したいと思います。




