50 後鳥羽上皇のご家族
この頃、朝廷はどうであったろうか。
建仁元年(1201)12月10日、九条兼実の長年連れ添った妻が亡くなる。
このことを契機として兼実は、翌建仁2年(1202)1月27日、かねてからその教えに帰依していた法然を戎師として出家、円証と号した。
日記「玉葉」については、正治2年(1200)までで、以降は、執筆はなされていない。
既に政治の場から退いていた兼実だが、もう復活することはない。
そして同建仁2年、兼実が失脚したあと朝廷における実力者となっていた土御門通親が世を去る。
朝廷において、後鳥羽上皇を掣肘する者はいなくなった。翌年の除目(官の任命)は、後鳥羽が主導することとなる。
征夷大将軍が宣下された千幡に対しては、後鳥羽が「実朝」の名乗りを定めた。
後鳥羽上皇は、13歳の第3代征夷大将軍を、朝廷の影響下に置こうとしたのである。
後鳥羽はいよいよ名実ともに「治天の君」となっていったのである。
義時が継室、伊賀の方を迎えた建仁4年(1204)。
後鳥羽上皇は、25歳である。
後鳥羽上皇のお子様を母となった方別に列挙してみよう。そのお子様たちが、その後どうなられたかも記す。
年齢は、建仁4年時点である。
○中宮:藤原(九条)任子(宜秋門院、32歳) - 九条兼実女
・第一皇女:昇子内親王(春華門院、10歳) - 順徳天皇准母・皇后宮
○女院:源在子(承明門院、34歳) - 法勝寺執行能円女、源(土御門)通親養女
・第一皇子:為仁親王(土御門天皇、10歳)
○女院:藤原(高倉)重子(修明門院、23歳) - 高倉範季女
・第三皇子:守成親王(順徳天皇、8歳)
・皇子:雅成親王(六条宮、5歳) - 承久の乱後、但馬に配流
・皇子:尊快入道親王(寛成親王、1歳) - 天台座主
○後宮:藤原氏(坊門局・西御方) - 坊門信清女
・第二皇子:道助入道親王(長仁親王、9歳) - 仁和寺御室
・第三皇女:礼子内親王(嘉陽門院、5歳) - 賀茂斎院
・皇子:頼仁親王(冷泉宮、4歳) -承久の乱後、備前に配流
○後宮:源氏(兵衛督局・加賀内侍) - 源信康女
・第二皇女:粛子内親王(高辻斎宮、9歳) - 伊勢斎宮
○更衣:某氏(尾張局、) - 法眼顕清女
・皇子:道覚入道親王(朝仁親王、1歳) - 天台座主
○後宮:藤原氏(大宮局・対御方) - 藤原定能女
・皇子:尊円法親王(1207-1231) - 園城寺長吏、聖護院
・皇子:行超 - 延暦寺
○典侍:藤原氏?(少納言典侍。坊門局と同一人?)
・皇子:道守(7歳) - 仁和寺
○後宮:某氏亀菊(伊賀局) - 刑部丞某女
○後宮:某氏滝(?-1265)
・皇子:覚仁法親王(桜井宮、7歳) - 園城寺長吏、熊野三山検校
○後宮:某氏石(丹波局・右衛門督局)
・皇女:凞子内親王(深草斎宮、1205-?) - 伊勢斎宮
○後宮:某氏(舞女姫法師)
・皇子:覚誉 - 禅林寺
・皇子:道縁 - 仁和寺
・皇子:道伊 - 園城寺
○生母不詳
・皇子:某(一条宮、4歳)
・皇女(3歳-1207)




