5 奥州藤原氏
奥州の土着勢力、安倍氏が滅亡に至った前九年の役(1052〜1063年)。
その後、奥州を支配した清原氏が滅ぶことになった後三年の役(1083〜1087年)を経て、奥州に覇権を確立した奥州藤原氏。
京の朝廷、摂関家には、莫大な貢納を絶やさず、従順な姿勢を保った。
中央政府が派遣する国司を名目上は上に立てながら、実質的には、奥州を一つの独立国同様に支配した。
初代、清衡。 二代目、基衡。そして三代目、秀衡。
その支配は百年に及び、金産地として、黄金に代表される華麗な文化が、平泉を中心に花開いていた。
秀衡は、保元・平治の乱においても、また歴史的には、治承・寿永の乱と呼ばれる源平合戦においても、戦いに介入することはなく、局外中立を保った。
全土を騒乱に巻き込んだ時代においても、奥州の地は、平和に繁栄を続けたのである。
平家を滅亡に至らしめた寿永四年(1185年)。
鎌倉の地に、京の朝廷に対峙する武家政権を確立させようとしていた源頼朝の念頭を、次に大きく占めたのは、奥州藤原氏の存在である。
翌文治二年(1186年、1185年中に改元)。
頼朝は、奥州に対し、これまで、朝廷、摂関家に直接行っていた貢納を、以降は、鎌倉を経由して行うように、との指令を発した。
この指令に対して、奥州がどう出てくるか、頼朝は試したわけである。
それは、平家が滅亡した今、関東、鎌倉は、その全てを挙げて奥州と対峙する。奥州がそれを望むなら戦いとなるも可なり、とする頼朝の自信の表れでもあった。
奥州は、この指令に服した。
今は、戦うつもりはない。との意思が返された。
しかしそれが、今後長期にわたってそうであるのか、という保証などあるわけもない。
長きにわたって平和を保った奥州は、今やこの国のどこよりも富有の地となっている。
そして、翌文治三年二月、鎌倉の追捕を受ける身となった義経が、奥州に逃れてきた。
治承四年(1180年)、源頼朝、関東にて旗上げの報を聞き、十六歳からの六年間を過ごした奥州の地を発った義経。
その義経が七年の時を経て、再び奥州に舞い戻ったのである。
彼、義経が一軍の将として、濃密かつ華麗な栄光の日々を過ごしたのは、寿永二年(1183)〜寿永四年(1185)の期間に過ぎなかったのである。
今、義経を受け入れることは、この奥州が、やがて鎌倉と干戈を交える、その覚悟を必要とすることを意味する。
奥州の覇者、藤原秀衡には、そのことは分かっていた。
だが彼は、少年から青年に至る歳月を、息子同様に慈しみ、その才を愛した男を、静かに微笑みをたたえながら
「九郎君、よう戻ってこられた」
と、その懐に抱き入れた。
その年の秋、秀衡が病に倒れた。
余命幾ばくもなし。
秀衡は居室に、
義経。
正室の生んだ後継者である次男、泰衡。
側室の生んだ長男、国衡。
その三人を呼び入れた。
ー 儂亡き後、鎌倉と事を構える際は、義経公を主君と仰ぎ、その命に服せ。
それが、秀衡の遺言だった。
ー 奥州の富裕と、いくさの天才、九郎君在りせば、よも鎌倉に遅れを取ることはあるまじ
十月、秀衡は逝った。享年六十六。




