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北条義時  作者: 恵美乃海
45/70

45 比企能員の変、頼家の鎌倉追放

 本章は、作者が一部補筆していますが、ほぼウィキペディアのコピペです(これまでもウィキペディアのコピペは相当に活用させていただいております)。


 史書「吾妻鏡」をもとにまとめられたもので、その「吾妻鏡」は、北条家が覇権を握って後に編纂されたものなので、北条家の立場からの記述とのご説明が付記されています。



 建仁3年(1203年)となった。


 1月2日:頼家の嫡男一幡が鶴岡八幡宮に参詣した。

 巫女を介して託宣があり、

「今年中に関東で事件が起こるであろう。若君が家督を継いではならない。崖の上の木はその根がすでに枯れている。人々はこれに気付かず、梢が緑になるのを待っている」

 と不吉の前兆を述べる。


 2月4日:千幡(実朝)の鶴岡八幡宮参詣が行われ、北条義時・結城朝光が補助した。


 3月:頼家の体調不良あり。


 5月19日:頼家の命により、阿野全成が謀反の疑いで大倉御所に監禁される。

 武田信光が生け捕り、宇都宮朝業に預けられる。


 翌20日、頼家が政子に使者比企時員を使わし、全成の妻である阿波局の身柄の引き渡しを要求するが拒否される。

 全成は25日に常陸国へ配流となり、6月23日、頼家の命により八田知家が全成を誅殺した。7月16日には京にいた全成の子頼全も誅殺される。


 5月末から6月にかけて狩猟に出かけた頼家が、仁田忠常らに洞穴を探索させて神罰に触れたという記事が続く。


 7月4日:鶴岡八幡宮の鳥の首が落ちたことなどの不吉の兆候を示す挿話が並べられる。


 7月20日:頼家が急病に倒れる。


 8月27日:頼家の容体が危篤と判断されたため家督継承の措置がとられ、関西三十八カ国の地頭職は弟の千幡に、関東二十八カ国の地頭職並びに諸国惣守護職が嫡男の一幡によって継承された。

 すると一幡の外祖父・比企能員は千幡との分割相続となったことに憤り、外戚の権威を笠に着て独歩の志心中に抱き、謀反を企てて千幡とその外戚以下を滅ぼそうとした。


 9月2日

 能員が娘若狭局を通じて頼家に北条時政を討つように訴えると、頼家は能員を病床に招いて時政追討の事を承諾した。

 これを政子が障子の影から立ち聞きし、事の次第を時政に知らせる。

 時政は大江広元に能員征伐を相談すると、広元は明言を避けつつもこれに同意する。

 そこで時政は仏事にこと寄せて能員を名越の時政邸に呼び寄せる。


 能員は一族に危険であると引き留められるが、武装してはかえって疑いを招くといって平服で時政邸へ向かった。

 時政邸では時政とその手勢が武装して待ち構え、天野遠景・仁田忠常が廷内に入った能員の左右の手を掴んで竹藪に引き倒し誅殺した。


 逃げ帰った能員の従者が能員遭難を知らせると、比企一族は一幡の邸である小御所に立て籠もる。するとこれは謀反であるとして政子が比企討伐の命を下し、軍勢が進発する。


 北条義時を大将とする

 北条泰時(義時の庶長子、このとき21歳)、

 平賀朝雅(北条時政と牧の方の間にできた娘の婿)、

 小山朝政、

 同宗政、

 同朝光、

 畠山重忠、

 榛谷重朝、

 三浦義村、

 和田義盛、

 同常盛、

 同景長、

 土肥維平、

 後藤左衛門尉信康、

 所右衛門尉(藤原)朝光、

 尾藤知景、

 工藤行光、

 金窪行親、

 加藤景廉、

 同景朝、

 仁田忠常らの軍勢が小御所へ襲来する。


 比企側は能員の子比企三郎、同四郎時員、同五郎、猶子の河原田次郎、娘婿の笠原十郎親景、中山為重、糟屋有季らが防戦し、決死の抵抗を続けたため戦闘は申の刻まで続き、寄せ手は御家人や郎従に複数の負傷者を出して退却した。すると今度は畠山重忠が壮力の郎従を繰り出して比企一党を攻め立てた。


 力尽きた比企側は館に火を放ち、それぞれ一幡の前で自決し、一幡も炎の中で死んだ。能員の嫡男比企余一郎兵衛尉は女装して戦場を抜け出したが、道中で加藤景廉に首を取られた。時政が大岡時親を派遣して死骸を検分させた。夜に入って能員の舅渋河兼忠が誅殺された。


 3日:能員与党の探索が行われ、流刑・死罪の処断がなされた。能員妻妾ならびに能員の末子である2歳の男子は和田義盛に預けられ、安房国へ配流となった。小御所の跡地の死骸の下から一寸ばかりの焼け焦げた小袖が見つかり、乳母が一幡のものであると証言した。


 4日:小笠原長経、中野能成、細野兵衛尉が能員与党として拘禁された。島津忠久は能員の連座で大隅国・薩摩国・日向国の守護を没収された。


 5日:危篤を脱して若干病状が回復した頼家は、嫡男・一幡と比企一族の滅亡を知ると激昂し、堀親家を使者として仁田忠常と和田義盛に北条時政を討つよう御教書を送る。しかし義盛はその御教書を時政の下にもたらす。時政は親家を捕らえ工藤行光に殺害させた。


 6日:能員追討の恩賞のため、仁田忠常が時政の名越邸に呼ばれるが、帰宅の遅れを怪しんだ忠常の弟達が北条義時の元へ押しかけ、忠常と弟2人は誅殺された。


 7日:政子の命により頼家が出家。


 10日:千幡が時政邸に移り、御家人らに所領を安堵する文書が時政によって下された。


 15日:千幡の乳母阿波局が、時政の妻牧の方に悪意があって、時政邸に置いておいては実朝の身が危険であると政子に告げる。政子は千幡の身を時政邸から引き取り、狼狽する時政に千幡が成人するまで政子と同所で養育すると告げる。


 9月15日:千幡に征夷大将軍が宣下される。


19日:比企能員の残党中野能成以下の所領が没収される。


 21日:時政と広元の評議によって頼家の鎌倉追放が決定される。


 29日:頼家が伊豆修禅寺に退く。


 こうして、頼家の外戚として権勢を誇った比企一族は、たった一日で滅亡してしまった。

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