44 梶原景時の変
比企能員が乳母父。その子である宗員、時員は、遊び仲間でもある腹心の家来。比企一族を重用し、過激な振る舞いの多い第二代鎌倉殿、源頼家。
一方、初代鎌倉殿、源頼朝が亡くなり、鎌倉殿の舅、正室という立場を失った北条一族にとって望みをかけていたのは、頼家より十歳年下の弟、千幡であった。
千幡の乳母、阿波局は、北条政子、義時の同母妹である。このときは大倉御所の女官となっていた。
その夫は阿野全成。幼名今若で、父は源義朝、母は常盤御前。すなわち源義経の同母兄である。
義経、範頼、頼朝も死した今、源義朝を父とする兄弟で、ただひとりの生き残りである。
合議制成立の半年後の秋、将軍御所の侍所で結城朝光が、ありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、頼朝公が亡くなられたときに出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた。
翌々日、阿波局が朝光に
「あなたの発言が頼家様を誹謗する謀反の証拠であるとして梶原景時が御所様に讒言いたしました。
あなたは殺される事になっています」
と告げた。
驚いた朝光は三浦義村に相談し、和田義盛ら他の御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時に恨みを抱いていた公事奉行人の中原仲業に糾弾状の作成を依頼した。
10月28日、
・千葉常胤
・三浦義澄
・千葉胤正
・三浦義村
・畠山重忠
・小山朝政
・結城朝光
・足立遠元
・和田義盛
・和田常盛
・比企能員
・所左衛門尉(藤原)朝光
・二階堂行光
・葛西清重(奥州にはさほど長くいたわけではなく関東に戻った)
・八田知重
・波多野忠綱
・大井実久
・若狭忠季
・渋谷高重
・山内首藤経俊
・宇都宮頼綱
・榛谷重朝
・安達盛長入道
・佐々木盛綱入道
・稲毛三郎重成入道
・安達景盛
・岡崎義実入道
・土屋義清
・東重胤
・土肥維平
・河野通信
・曽我祐綱
・二宮友平
・長江明義
・毛呂季綱
・天野遠景入道
・工藤行光
・中原仲業
以下御家人66名による景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、
政所別当大江広元に提出された。
景時の実務能力の高さを惜しむ広元は躊躇して連判状をしばらく留めていたが、和田義盛に強く迫られ、やむなく頼家に言上した。
11月12日、将軍頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、景時は何の抗弁もせず、一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向した。
景時にとっては、おのれがかくも多くの御家人に恨まれていたというのは大きな衝撃であった。
謹慎により一旦鉾は収まり、景時は12月9日に鎌倉へ戻った。
謹慎の間、景時は挽回策を図った。それまで自分が掴んでいた情報も考え合わせ、ひとつの結論に達した。
景時は、頼家に
ー 御所様に代わって千幡様を新たな鎌倉殿に押し立てようとする動きがあります。先の連判状に名を連ねたは、それを支持する御家人どもです。
と訴えた。
これを聞いた頼家は、
ー ではその言い分にて御家人どもと議せよ。
と突き放した。
多勢に無勢。さらには
ー 景時は更なる讒言をなしたか
と結論づけられ
12月18日、梶原景時は、一族とともに鎌倉追放を申し渡された。
和田義盛、三浦義村が景時追放の奉行となって鎌倉の邸は取り壊された。29日、結城朝光の兄小山朝政が景時に代わって播磨国守護となり、同じく景時の所有であった美作国の守護は和田義盛に与えられた。
翌正治2年(1200年)正月20日、景時は一族とともに京都へ上る道中で東海道の駿河国清見関近くで偶然居合わせた吉川氏ら在地武士たち、相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受け、狐崎において合戦となる。
子の三郎景茂、六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連が討たれ、景時と嫡子景季(39歳)、次男景高(36歳)は山へ引いて戦ったのち討ち死にし、その首は隠されていたが翌日探し出され、一族33名の首が路上に懸けられた。頼朝の死から1年後のことである。
『吾妻鏡』正月28日条によると、景時は朝廷から九州諸国の総司令に任命されたと称して上洛し、武田有義を将軍に奉じて反乱を目論んだという。
景時弾劾状に北条時政・義時の名は見られないが、景時の一行が襲撃を受けた駿河国の守護は時政であり、景時糾弾の火を付けた女官の阿波局は時政の娘で、千幡の乳母。
この事件では御家人達の影に隠れた形となっているが、景時追放はその後続く北条氏による有力御家人排除のはじまりであった。
この正治2年(1200)1月23日には三浦義澄が、
4月26日には安達盛長が病死する。
13人の合議制は、始まってから1年で10人になったのである。




