42 13人の合議制
建久10年(1199)1月13日、頼朝が亡くなると、嫡男頼家は20日付で左近衛中将となり、26日家督を相続し第2代鎌倉殿になった。
尚、従二位・征夷大将軍が宣下されたのは、3年後の建仁2年(1202)7月である。
前年に養女である在子が産んだ為仁親王が即位し土御門天皇となり、天皇の外祖父として権勢を振るっていた土御門通親は、1月20日に臨時除目を行い、前記の源頼家の左近衛中将と合わせて自らの右近衛大将昇進の手続きをとった。
が、頼朝の死が伝わった京には一時不穏な空気が流れ、都で騒動が起こるという噂が駆け巡り緊迫した情勢となった。
土御門通親は、
ー 今。外に出たら殺されかねない。
と、院の御所(仙洞御所)に篭もる事態となった。
当初は誰が関与して騒動を引き起こしているのか不明であった。
結局、その中心となっていたのは後藤基清、中原政経、小野義成の三名で、この三名はいずれもその官職が左衛門尉だったので、この騒動は三左衛門事件と呼ばれる。
三名は一条家の関係者あるいは家人であった。
京都守護であった一条能保は二年前に亡くなったが、そのあとを継ぎ、大姫の縁談相手にもなっていた嫡男高能も前年、建久9年(1198)、9月に病死する。
三左衛門事件は、最大の支援者、頼朝が亡くなったことで主家が冷遇されるという危機感を抱いた一条家の家人が形勢を挽回するため、土御門通親襲撃を企てたものであった。
頼朝から頼家への権力移行を円滑に進めたい幕府は、政所別当大江広元が中心となって事態の沈静化を図った。
土御門通親は、幕府の協力により不満分子を一掃することに成功した。
尚、この事件の関係者は概ね、後鳥羽上皇の意向で早期に赦免され、一部はのちに院の近臣に取り立てられ、後鳥羽院政に寄与することになる。
この事件については、頼朝の死に乗じて幕府に、そして土御門通親に対して揺さぶりをかけようとした後鳥羽の示唆があったのかもしれない。
ー 朕、治天の君とならん
20歳の後鳥羽は、自らが政治的実権を握る親政に向け動き出していた。
頼朝が亡くなり第二代鎌倉殿となった源頼家。
史書である「吾妻鏡」に、
直後に従来の慣例を無視していくつかの恣意的判断を行ったという記載がある。
その真偽は不明だが、頼家に第二代鎌倉殿として、父、頼朝同様に独裁的権限を振るおうとする動きがあったのであろう。
が、頼家は未だ18歳。
4月12日、頼家が訴訟を直接裁断することは禁じられ、有力な御家人13人の合議により決定されることとなった。
13人の合議制の開始である。
その構成員は以下の通りである。
年齢順に並べる。
年齢の記載の無い者は、生年不明でこの時点での年齢が分からない人物だが、他の記録からの類推で、おそらくこのあたりの年齢であろう、というところに並べた。
・三浦義澄 73歳 相模守護
・足立遠元 ? 公文所寄人?
・安達盛長 65歳 三河守護
・北条時政 62歳 伊豆、駿河、遠江守護
・三善康信 60歳 問注所執事
・梶原景時 60歳 侍所別当
・八田知家 58歳 常陸守護
・中原親能 57歳 京都守護
・二階堂行政 ? 政所令
・比企能員 ? 信濃、上野守護
・和田義盛 53歳
・ 大江広元 52歳
・ 北条義時 37歳
侍所別当が、和田義盛から梶原景時に変わっているが、これについては、侍所令(次官)であった景時が、義盛に対して
ー 一日だけでも別当になりたい
と持ちかけ、そのまま、その職を奪ったという挿話が語られている。
が、この職が、そのような個人的なやり取りで決定されるはずもなく、戦乱の時代が終われば、武人である和田義盛よりも、事務、実務能力にすぐれた梶原景時が、その職に相応しいという、頼朝の意向であったであろう。
侍所別当は、現在に置き換えれば軍令を司る統合幕僚会議議長ではなく、軍政を司る防衛大臣であったろう。
13人の合議制の構成員。
義時だけが、若い世代からメンバー入りしている。
そして北条だけが複数そのメンバーとなっている。
北条義時が、この年齢になるまでに、どのような目覚ましい業績があったのかは分からない(頼朝が、三幡の入内を目論んで九条兼実との再提携を図り、三幡の女御としての入内が決定したというのはウィキペディアに書かれていることだが、義時が京に赴き九条兼実と交渉して三幡の入内を決めたというのは作者の創作である)。
が、この構成をみると政治力を持ち、その実務能力は頼朝治世下において、既に高い評価を得ていたのであろう。
そして北条は、この時点で、相対的ではあっても最有力の御家人となっていたと言えよう。
が、第二代鎌倉殿である源頼家の乳母父は、比企能員。その正室は比企能員の娘、若狭局であった。




