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北条義時  作者: 恵美乃海
40/70

40 頼朝死す

年齢や月日については、これまで漢字で記していましたが、数字にします。

 建久九年(1198)12月27日、頼朝は相模川で催された橋供養に出かける。

 橋供養というのは、橋が懸かったときその橋で供養することだそうだが、詳細は分からない。


 その帰路、頼朝は落馬する。この落馬については、義経の亡霊があらわれたのが原因などという言い伝えもあるようである。


 その落馬が原因となり、頼朝は体調を崩す。


 建久10年(1199年)1月11日に出家。

 1月13日に死去した。享年53(満51歳没)。



 入内が決まっていた頼朝の次女三幡は、同年3月高熱を発し起き上がることのできない状態となった。


 母、政子は、多くの神社寺院に祈願、読経をさせるが、日を追うごとに三幡の憔悴は深まる。


 京から高名な針医師を呼び寄せたりもするが、そのかいもなく、6月30日、三幡は亡くなった。14歳だった。


 頼朝、政子、大姫、頼家、三幡、千幡。

 父、母、娘ふたり、息子ふたり。


 六人だった家族は、たった二年で、母と息子ふたりだけになってしまった。

 政子と、頼家、千幡が残った。



 歴史を個人の名前によって区分することは意味がないし、むしろ避けるべきことと思う。

 が、物語としての歴史という観点に立って、あえてそれを行えば


 治承・寿永の乱から衣川におけるその死までは、源義経の時代。

 それ以降は源頼朝の時代。

 その死以降は…


 北条政子と北条義時。この姉弟の時代であろう。


 当時の武士は鎌倉幕府のことは「鎌倉殿」と読んでいたようである。

 鎌倉殿は、その棟梁をも表す。


 初代の鎌倉殿、源頼朝死して、頼家が第二代の鎌倉殿となる。


 そして十三人の合議制が始まる。



頼朝に対する呼びかけ、どうするか悩んだ末に「殿」としたのですが、色々読んでいくと、どうも「御所様」と呼ばれていたのかなと思います。こちらのほうが語感がよいですね。


これからはこちらを使おうと思います。


これまで書いた分については、もし気が向いたら直します。


三谷幸喜さんが、朝日新聞夕刊毎週木曜日の連載エッセイ「ありふれた生活」で、昨日「鎌倉殿の13人」について書いておられました。

来年の大河ドラマ、頼朝が死ぬところで半分、前半が終わり、なのだそうです。

で、そこまでも充分面白いのですが、本当に面白いのはそれ以降、なのだそうです。

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