38 後鳥羽天皇譲位
大姫の入内は結局実現しなかった。
建久八年(1197)七月十四日、大姫は病により亡くなった。二十歳だった。
おそらくは、一昨年の上洛を契機として、大姫の健康状態、精神状態はまた悪化したのではないだろうか。
再び、床に伏す日が続いた末の死去だった。
母、政子は、
ー 私も一緒に死にたい
と、しばしば口走るほどに嘆き悲しんだ。
それを懸命になだめ、思いとどまらせたのは頼朝だった。
翌建久九年(1198)一月十一日。
十九歳になったばかりの後鳥羽天皇が、三歳になったばかりで、まだ立太子もしていなかった為仁親王に譲位し、太上天皇(上皇)となる。
後鳥羽院政の始まりである。
院政を始めたのは、後白河の曽祖父、白河天皇であると言われる。
もともと上皇は、先代の天皇として天皇と同等に扱われて来たが、
白河は譲位して上皇となってから、むしろ政治に大きく関与するようになる。
人臣の最高権力者が、その娘を天皇の室とし、皇子が産まれたら幼少の内に譲位、その皇子が天皇となり、その権力者は天皇の外祖父という名目も手に入れる。
これが藤原氏が、そして平清盛が行っていたことだったので、この時代には、
幼少の天皇。
青年あるいは壮年の上皇。
というのが常態化していた。
その上皇が、摂関家当主との力関係の中で、かなりの程度に政治的実権を持てば、それは院政と呼ばれ、後白河法皇もそれを実現した(出家した上皇は法皇と呼ばれる)。
なお、上皇あるいは天皇が親政し、政治的実権を持った場合は、その上皇あるいは天皇は、「治天の君」と呼ばれる。
ゆえに、後鳥羽が自らの意思で譲位して上皇となったというのは、
― 朕、治天の君なり
として親政、院政開始の宣言、あるいはそれを志向するという意思表明でもあった。
頼朝は当然反対した。その自らの意見も朝廷に伝えた。
が前年、京都守護であった一条能保が亡くなっており、そのあとを継いだ一条高能はまだ若く政治的経験に乏しい。
頼朝はこのとき、自分の意を体して朝廷に対して影響力を持つ人材に欠けていたのである。
そして土御門通親が主導しているはずの朝政の場で、この後鳥羽の譲位を阻止できなかったということに、今後の朝政に不安を感じた。
ー 今後、如何にして儂の意思を朝廷に反映させればよいのか。
頼朝には実現させたいことがあった。
大姫は亡くなった。しからば…
次女、乙姫(三幡)の入内である。




