37 兼実失脚、朝廷の新体制
建久六年(1195)十二月に通親の養女・在子が皇子(為仁、のちの土御門天皇)を産んだことにより、廷臣の大半は兼実に見切りをつけて、皇子を養育している通親の傘下に流れていった。
建久七年(1196年)三月、兼実の長年の盟友だった左大臣・三条実房が病により辞任するが、兼実は後任を定めなかった。これは兼実の求心力が地に落ちて人事権を行使できなくなっていたことが大きな要因だったと思われる。
十一月二十三日、中宮・任子は内裏から退去させられ、二十五日には兼実が上表の形式すらなく関白を罷免された。
後任の関白には近衛基通が任じられた。
摂関家の中でも、最も本流の血統であり、
兼実の前の関白でもあった。
復活したということになるが、父が早くに亡くなったため、有職故実を習う時間もなく、関白にあった当時は儀式において、失態を重ねていた人物である。
『愚管抄』によると通親は兼実の流罪まで行おうとしたが、後鳥羽天皇がそこまでの罪はないと押し止めたという。
兼実の弟の慈円・兼房もそれぞれ天台座主・太政大臣を辞任した。
この政変において兼実を支援する勢力は皆無に等しかった。
兼実の執政は法皇崩御から僅か4年余りで終焉することになった。
兼実失脚後に朝政を主導することになった通親は、兼実の門閥重視で硬直した公卿人事を見直し、兼実執政下で不遇だった貴族を次々に昇進させた。
吉田経房・葉室宗頼は権大納言に、
山科実教は中納言に、
一条高能は参議となった。
兼実のかつての側近であった宗頼は通親の義妹・卿局を妻に迎え、通親の嫡子・通光を婿とするなど完全に通親派に鞍替えした。
この時点で内大臣になっていた九条兼実の次男、良経は、九条家で一人だけ廟堂に留まったが、篭居を余儀なくされ、実際に政治を行う場からは遠ざけられた。
右大臣、藤原(花山院)兼雅は、その地位にとどまっている。もともとさほど政治力のある人物ではなかったようであるし、この時点では、土御門通親派に近寄っていたようである。
二年後、従一位に昇叙し、その時点でまだ空位であった左大臣となっている。
なお、通親自身は、権大納言にとどまっている。
それまでの権勢を求める通親の姿勢とは矛盾する一見無欲な行為だが、さほどの家柄ではなかった通親は、ここで高位について目立つよりも、官位はとどめ、実権を握ればそれでよし、と判断したのであろう。




