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北条義時  作者: 恵美乃海
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35 大姫 及び 一家を伴う源頼朝の再上洛

頼朝と政子の長女、大姫は十二歳で斬死した源義高のことが忘れられなかった。


そのとき、大姫はまだ七歳であったが、自分の未来の夫として慕っていた義高が、父、頼朝の命によって殺されたということは、大姫の心を深く傷つけた。


大姫は悲嘆にくれ、食事も水も、その喉を通らないというような状態になった。


大姫の知らせにより逃亡した義高を追い、入間河原の地で討ち取ったのは、藤内光澄という人物である。


母、政子は、日に日に憔悴していく大姫を見て、義高を斬ることを決めた頼朝を責め、さらには直接手をくだした藤内光澄の配慮が足りなかったせいであるとして、頼朝に強く迫り、光澄は晒し首にされた。


もちろん、それで大姫の心は慰められない。

多分、さらに悲嘆にくれたのではないかと想像する。


その後もずっと、少女になって年齢を重ねても、大姫は義高を慕い続け、床に伏す日々が続いたのであった。



建久五年(1194)八月、京都守護、一条能保の子で、頼朝には甥にあたる一条高能が鎌倉にやってくる。

高能はこの時、十七歳。大姫と同年齢である。

目的は大姫との縁談であった。


頼朝、政子は、大姫の入内を意図してはいたが、夫妻にとってはそれよりも以前に、大姫の健康状態、精神状態が気がかりであった。


大姫が同年齢の一条高能に心を開き、嫁ぐ気になってくれればそれでよし、と思ったのであろう。


が、大姫は

ー 嫁ぐくらいなら、深淵に身を投げます


と、一言のもとに拒否した。


頼朝と政子は、この話を進めることを諦めた。



建久六年(1195)、頼朝は、奈良東大寺の再建供養に出席することを名目として再び上洛する。


寿永四年(1180)、東大寺は、大仏殿も含めて、頼朝挙兵に呼応して反平家に動いた衆徒鎮圧のため、南都(奈良)に向かった平清盛の五男、重衡が率いる軍勢により焼亡していたが、その再建供養である。


この上洛では、頼朝は、正室、政子。嫡男、頼家とともに大姫も伴った。

この上洛については、大姫の後鳥羽天皇への入内を図るという目的もあった。


大姫は、その目的については、聞かされてはいなかったのでは、と推測するが、であってもこの上洛に同行していた、ということは、そのとき、大姫の健康状態、精神状態は多少なりとも改善されていたのかもしれない。


頼朝は、娘、任子が中宮となっている九条兼実ではなく、土御門通親や丹後局に接触し、莫大な進物、その荘園の安堵などを行い、朝廷工作を図った。


以前は、兼実側に立ち、兼実とともに、このふたりの所領増の動きを阻止していたのであるから、頼朝は、大姫入内の意図を契機として、その政治的立場を変えたということになろう。

中宮、任子という存在があったとはいえ、頼む相手として、九条兼実ではなく、土御門通親、丹後局を選択したということになる。


それは、京都守護等から入って来ていたであろう、直近の朝廷の政治的情勢に関する情報からの判断でもあったのであろう。


なお、この上洛の際の頼朝の動きについては、ウィキペディアの記事を、以下そのまま転載させていただく。

九条兼実は、この時点で源頼朝の支持を失っていたということになろう。


九条兼実が関白の座を追われ失脚するのは、この翌年のことである。


(以下、ウィキペディアの転載)


建久6年(1195年)3月4日、頼朝は東大寺落慶供養に参列するため5年ぶりに上洛した。

頼朝は落慶供養を終えて京に戻るとまず宣陽門院に参入し、3月29日には丹後局を六波羅に招いて政子・大姫と引き合わせ、豪奢な贈り物を進呈した。

これは大姫入内工作の一環と思われる。


一方、兼実と頼朝が対面したのは3月30日の参内の際だったが『玉葉』には「雑事を談ず」とあるだけで、4月1日条には頼朝の贈り物が「馬二疋」であったことを「甚だ乏少」と記し、頼朝の態度の変化に困惑している様子が伺える。


4月10日、兼実と頼朝は再び対面するがこの時の会談はかなり長くなり、深更にまで及んだ。


4月12日には、吉田経房が六波羅に参入して頼朝や大江広元と盃酒を交わし、「旧院御代の事」や「当時御世務」について談話が数刻に及んだ。


(作者注 吉田経房は、正二位・権中納言。関東 申次(もうしつぎ)。関東申次は、朝廷・院と幕府の、連絡・意見調整がその職務である)


(作者注 六波羅は、平清盛の居館があった場所であるが、焼亡後、頼朝はその地に新邸を建て、在京時の居館とした)


これらの会談の主題は兼実がかつて取り消した長講堂領の再興問題と推測される。10日の兼実と頼朝の会談が長引いたのは兼実の執拗な抵抗があったためと見られるが、4月24日になって頼朝の申し入れにより長講堂領七ヶ所の再興が決定された。


兼実は有職故実には通じていたが政治工作は不得手であり、丹後局と頼朝の接近を眼前にしても状況を傍観する以外に手立てはなかった。

(以上、ウィキペディアの転載)









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