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北条義時  作者: 恵美乃海
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33 富士の巻狩り

建久四年(1193)五月、源頼朝は多数の御家人を集めて、富士の広大な裾野で巻狩りを行う。


巻狩りとは、鹿や猪が生息する狩場を多人数で取り囲み、獲物を追い詰め射止める狩りである。


神事祭礼、軍事演習の意味があった。


この時の巻狩りは実施された期間は長く、動員された御家人も多数であり、大規模なものであった。


十二歳となった嫡男、万寿(元服して頼家)も参加した。

有力な御家人では、北条時政、北条義時、梶原景時、梶原景季、畠山重忠、三浦義澄、三浦義村なども参加している。


五月十六日、武芸については既に大きな才能を示していた源頼家が初めて鹿を射止めた。


頼朝は、これは神が、頼家を嫡男として認めた証しとして喜び、早馬をたて、鎌倉の政子に知らせたが、政子は

― 武士の嫡男であれば、鹿を射止めるなど、当たり前のことではないか、何をわざわざ知らせるのだ


と、この使者を追い返したそうである。



五月二十八日、曾我祐成、曾我時致の兄弟が、かねてより(かたき)と見做していた御家人、工藤祐経を打ち果たすという事件がおきる。


これは、赤穂浪士の討ち入り。荒木又右衛門の鍵屋の辻と並んで、日本三大仇討ちと称されている事件であり、十郎、五郎の曾我兄弟の仇討ちとして、歌舞伎、能、浄瑠璃といった芸能の題材にもなっている(曾我物語)。


この仇討ちは、個人的な恨みによるもので、政治的な意味合いはない。

が、この兄弟は伊東祐親の孫にあたる。

北条時政の前妻(政子、義時の母)は、伊東祐親の娘なので、縁者ということになるし、北条時政を頼っていた時期もあった。


また理由は不明だが、仇討ちを果たしたあと、弟の

時致が、頼朝のもとに駆け寄るという動きをしたので、この事件については、頼朝を亡き者にしようとする北条時政黒幕説というのもあるようだ。


が、将軍、源頼朝の舅であるというのは、御家人の中でも北条氏が特別にみられているその所以であるので、この時期の北条時政に、頼朝を暗殺する理由はないであろう。



この事件の直後、鎌倉では、しばらく頼朝の消息が確認できなかった。その安否を心配する政子に対し、鎌倉で留守をしていた頼朝の異母弟、範頼が、


ー この範頼がおりますので、どうかご安心ください


と見舞った。


後日、政子からこのことを聞いた頼朝は


ー おのれのことをそのように自負しておるのか。いざとなれば儂に代わり得るとでも思うてか


と、不快に思った。


やがて、謀反の心ありやと疑い、八月、範頼は、伊豆国修善寺に幽閉された上、謀殺されたようである。


治承・寿永の乱において、義経のような華々しい勝利はなかったが、源氏の総大将を堅実に務めた源範頼は、こうして歴史の表舞台から消えた。








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