32 頼朝のお子様たち、及び在子入内。
第30章でも書きましたが、
「幕府」という名称が、武家政権を表す言葉として使われるようになるのは、江戸時代中期以降のことである。
鎌倉に出現した統治機構については、当時は「関東」
「武家」「公方」というような名称で呼ばれていたようである。
が、鎌倉に生まれた武家政権について、以降は便宜上、「幕府」の名称を使用させていただきます。
鎌倉幕府。
政所別当は、大江広元。
政所令は、二階堂行政。
問注所執事は、三善康信。
侍所別当は、和田義盛。
侍所所司は、梶原景時が任じられた。
京都守護は、一条能保である。
頼朝が征夷大将軍の宣下を受けた建久三年(1192)七月の、翌八月。
頼朝の正室、政子が、政子にとっては第四子となる男子、千幡を産む。
兄姉の、この時点での年齢は
大姫、十五歳。
万寿、十一歳。
乙姫(三幡)、七歳
である。
源頼朝の、政子以外の女性との間にできた子は、流人時代、北条時政とともに頼朝の監視役であった伊東祐親が大番役で上洛していた時期に、その娘、八重との間にできた千鶴丸がいたが、この子は、平家を憚った伊東祐親に殺害される。
あとは、大倉御所の侍女、大進局との間に産まれた男子がいるだけである。
この男子は、この時点で、乙姫と同じ七歳である。
大進局の懐妊を政子が気付いたため、政子の怒りを恐れた頼朝によって遠ざけられ、家臣、長門景遠宅にて出産する。
景遠は、母子を匿ったことにより、政子の怒りを買い、子を連れて逃げ隠居した。
その後も、この男子は乳母のなり手もなく、人目を憚りながら育てられる。
千幡が産まれる三ヶ月前、一条能保の養子であった仁和寺の法眼、隆暁に弟子入りして出家するため、景遠の子、景国に伴われ上洛する。
頼朝は出発の前夜、密かに息子の元を訪れ、太刀を与えたという。
大進局もその後出家して禅尼となった。
なお、姫の前が北条義時の妻となったのは、千幡が産まれた翌月である。
征夷大将軍の宣下を受けたこの年。
頼朝は、それなりに身辺整理したようである。
摂関家の嫡流に生まれた関白、九条兼実は血統重視で、その人事は門閥意識が強かった。
兼実にとっては、位階、官職は、その血筋によって自ずから定まるべきものであった。
後白河法皇が崩御したあと、兼実は、血筋がさほど良いわけでもないのに、後白河院に重用されていた院の近臣の抑圧に乗り出した。
院の近臣、その筆頭格であった土御門通親も手を拱いていたわけではない。
後白河法皇は、寵愛厚かった丹後局との間にできた末の娘の覲子内親王を溺愛した。
それゆえ、院号を宣下し、宣陽門院としたのだが、後白河の所持する院領の中でも最大規模の長講堂領を、宣陽門院に伝領させた。
宣陽門院の執事別当である土御門通親は、宣陽門院の生母、丹後局と相図り、宣陽門院領の荘園の新規立券(所領の租税を免除するための手続き、ということのようです)を行っていたが、九条兼実は、これを取り消した。
なお、荘園以外に国衙領と呼ばれる、公権力の支配地も存在していたのだが、このときの土御門通親と丹後局は、ある国衙領を院の荘園であるとして自分のものにしようとする動きもあったようであるが、これも合わせて兼実に取り消された。
またこの取り消しには、源頼朝の支持もあった。この時期、兼実と頼朝は政治的にも同一歩調をとっていた。
政治的情勢をみるのに敏な頼朝は、その時期は九条兼実の権勢が旺で、兼実側につくのが賢明である、と判断していたのであろう。
兼実は院近臣を排除し、門閥重視の人事を行ったので、その措置は丹後局の憤激をかった。
人事面で冷遇された院近臣、さらには中、下級の貴族らは、宣陽門院領を基盤として、土御門通親、丹後局を中心に、九条兼実に対して反撃の機会をうかがうことになる。
そしてこの年、土御門通親の養女、在子が入内する。
この年、後鳥羽天皇は十三歳。中宮、任子は、二十歳。
在子は、さらに年上の二十二歳であったが、華やかな容貌で、気性も活発であった。
通親は、この日あるを期し、養女、在子を掌中の珠としていた。
後鳥羽がもう間もなく大人となるであろうこの時期を待って、丹後局の支援も得て、入内を実現させたのである。
在子の母であり、土御門通親の正室である範子は、後鳥羽の乳母である。
後鳥羽に対する影響力は大きく、九条兼実の勢威をもってしても、その入内を阻止できなかった。
新たに入内した在子は、後鳥羽の心を捉えた。




