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北条義時  作者: 恵美乃海
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31 荘園及び鎌倉幕府

徳川幕府は、幕藩体制と言われる。


なお、「藩」というのは、江戸時代の公的な制度名ではなく、使っていたのはごく一部の人間である。

明治時代になってから初めて公称となり、一般でも広く使われるようになった。


江戸時代、「藩」という概念が、実際にどう呼ばれていたのかは分からない。

「当家」「他家」というように呼ばれていたのではないか。

また○○藩士については、○○○○家来。

藩主については、封地名に侯を付け、仙台侯、尾張侯と呼ばれていたのではあろう、とのことである。



徳川幕府は、幕府(将軍)と、藩(大名)という封建的主従関係を基軸とした体制である。


全国の領地は、幕府の直轄地である天領以外は、各藩が自治的に分割統治する。


幕府は諸大名を、親藩、譜代、外様に分け、参勤交代を義務付ける等の方策によりこれを統治した。


またしばしば改易、転封を行ったので、かかる任免権も掌握していたと言えよう。


江戸時代においては、朝廷の領地も幕府が決定した。

徳川家康は各地に散らばっていた朝廷領を整理して、朝廷領は山科の地、一万石のみとなった。

徳川綱吉の代に三万石に加増されたが、それにしても小大名程度の石高である。


なお、江戸時代、日本全国の石高はおよそ三千万石。

内、幕府は将軍家直轄地が四百万石。直臣(旗本、御家人)の石高合計が四百万石。合わせて八百万石程度であった。

大名家で最大だったのは、加賀前田家で、百二万五千石。

幕府は他に隔絶した石高を持ってはいたが、経済的には全国の四分の一程度がその権益だったということになる。


朝廷は江戸時代においても、形式的には叙任(位階を授けること)は行っていたので、大名からの叙任の返礼としての礼金や進物により、実質的には十万石程度の収入はあったようだ。



鎌倉幕府成立当時の状況は、この徳川幕藩体制とはかなり異なる。


西暦645年、今は乙巳の変と称される、中大兄皇子、中臣鎌足による宮廷クーデターのあとの国政改革により日本は律令国家を指向することとなる。


律(刑法)と令(それ以外の法)という成文法に基づく中央集権国家の成立を目指したのである。


・豪族らの土地と人民の所有を廃止する。

・中央による統一的な地方統治制度の創設


により公地公民制が成立した。

全ての土地、人民は天皇(公)が所有、支配する体制である。


戸籍と計帳により、全国の人民と土地の概要を把握した政府は、公地公民の原則に従い、班田収授法により、受田資格を与えた貴族や人民に、田が班給された。


班給された田は課税対象であり、その収穫から税(租)が徴収された。


が、社会主義国家の崩壊がその例証になるかと思うが、全ての土地は国家のもの。私有は認めないという制度では、収入増のモチベーションは生まれ難い。


期限付きの私有が認められる三世一身法を経て、西暦743年に墾田永年私財法が発布される。

同法は、開墾した田の永年私有を認めるものだったので、資本を持つ中央貴族、大寺社、地方の富豪(かつての豪族層)は、活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現する。

この大規模な私有土地が荘園である。


武士の起源を簡単に説明することは困難である。作者にその詳細な知識もない。


古代から、武をその職掌とする武官は存在した。


平安時代が進んでいくにつれ、諸国の荘園間で、土地の所有をめぐっての武力紛争が頻発するようになると、各荘園領主は、徴税、警察、裁判の責任者としての荘園の管理を、武力紛争に対応できる者を任命するようになり、これら領地の現地管理者としての武士が出現した。


平安時代後期には中央政府の有力者へ田地を寄進する動きがみられる。

寄進することにより有力者の保護を受け、その保護の代償分と引き換えに、所領の安全を確保し実質的権益を守るのが狙いであろう。


寄進を受けた荘園領主は、領家と称されるが、領家からさらに皇族や摂関家などのより有力な権力者に寄進されることもある。

最上位の荘園領主を本家。本家と領家の内、荘園を実効支配するものを本所と呼ぶ。


鎌倉幕府が成立した時点においては、院をはじめとする皇族領。有力貴族、大寺社の持つ荘園は、全国広範囲に存在していた。


源頼朝は、文治の勅許(1185年)により、諸国への守護、地頭職の設置、任免権を得た。

が、地頭職というのは、荘園そのものを支給されるというわけではない。


荘園の徴税、警察、裁判の責任者としてその荘園を現地において管理する職務と言えよう。

荘園からの収穫は、荘園領主のものということになる。


また幕府が成立した時期は、荘園領主の権力は依然として強かった。

地頭に任命されたものは現地の事情に疎く、また識字能力、行政能力に欠ける東国出身者が多かったので、

荘園領主は、別に事務能力を有する人材を現地に派遣することも多かった。


鎌倉幕府は、徳川幕府と違って、成立時点でその支配権は全国に及んでいたわけではなく、限定されたものであった。


平家一門は、その全盛期の際は、その持てる武力を背景に、全国の荘園の相当部分と、朝廷の高い官位を相当な割合で占有した。


故に源平合戦においては、朝廷は源氏の支持者となっていたが、それは平家に奪われた既得権の回復を意図したからであり、平家滅亡後の源氏には、一定の権益は与えても、朝廷を奉る立場は堅持する。

警察権を持ち、武力紛争が発生した場合の治安維持を行う。その役割にとどまるということが、当時の朝廷が幕府に期待していたことであったろう。


源氏の後裔の中で、地方にその本拠を求め武士化した武家源氏は、清和天皇を祖とする清和源氏が多く、東国をその地盤とした。


前九年の役、後三年の役において、源頼義、源(八幡太郎)義家が示した武勇にもより、その尊貴な血筋もあって、関東武士団の棟梁としての立場を得ていた。


頼朝は、源義家の直系の玄孫となる。


平家の専横は東国にも及んでいた。

頼朝が挙兵した際、関東武士団が、続々と頼朝のもとに馳せ参じたのには、このような背景がある。


幕府が御家人の所領支配を保証することを「本領安堵」というが、上記のような歴史的経緯をみると、御家人がその所領を実質的に我がものとするまでには、管理者であったものが歳月が重なるにつれ実効支配者になる等、個々に様々な経緯があったと推定される。

また、その所領の領有権を主張するものは他にもいる、というケースも多かったであろう。


御家人にとって「本領安堵」は、揺るがせにできない重要事項であり、その保証を与えてくれる権威である幕府に対しては、その見返りとして「奉公」を行うことになる。


鎌倉幕府の主要な政府機関として


一般政務を行う「政所」(1190年に、頼朝が権大納言・右近衛大将に任じられた際、家政機関としての政所の設置が認められ、それまで頼朝が独自に設置していた公文所から名称変更)。


 軍事、警察を司る「侍所」。


と並んで、

訴訟、裁判を司る「問注所」が併記されるのが常だが、

所領に関する訴訟は相当に多く、「問注所」のその職務は相当に多忙であっただろう、と推察する。









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