30 九条兼実の時代
後白河法皇の逆鱗に触れ、暗澹たる思いであった兼実。
が、法皇の崩御により状況は一変する。
源頼朝との面談において、後白河法皇亡き後の世を待ち望んでいることを伝えていた兼実。
その世がやってきたのである。
後鳥羽天皇は十三歳。
兼実は関白として天皇を後見する。
兼実は朝廷における実質的な最高権力者として、朝廷の政を主導する立場を得たのである。
このときは実権のない名誉職的なものになっていたが、名目上は、左右大臣より上である太政大臣は、兼実の弟、藤原兼房。
左大臣は、兼実の長年の盟友であった三条実房。
右大臣兼右近衛大将は、藤原(花山院)兼雅。
有職故実に詳しく先例を厳格に守る。それが兼実の政治である。
人事は門閥重視。
弟であった太政大臣だけでなく、左大臣、右大臣も、家柄によってその地位に処されており、いずれもさほど政治力のある人物ではなかった。
九条家の家司、葉室宗頼は実務能力にすぐれ、兼実の信任も厚かった。
が何よりも血筋を重んじる兼実にとって葉室宗頼は、あくまでも摂関家の家司にすぎず、政治的な実権を持たせるつもりはなかった。
なお、このとき二十四歳であった兼実の次男、良経は、権大納言兼左近衛大将。
さらに中宮である妹、任子の中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ/中宮に関する事務を執り行う中宮職のトップ)も兼ねていた。
さらに兼実は、同年十一月には、弟の慈円を天台座主に任じて、延暦寺を統制させる。
天台座主は、当時においては宗教界のトップといえる存在である。
兼実はその時代では大きな社会的勢力であった宗教界にもその勢威を及ぼし、おのれの政権基盤を確固たるものにしていったのである。
九条兼実が誇りとするところは、有職故実をはじめとするおのれの学識。その博覧強記。
兼実からみると、朝廷の公卿たちも、大してモノを知らない不明な輩ばかり。
自分が対等の相手として対峙する必要のある者はひとりもいない。
深い学識。高い家柄。
自分が朝廷において、一人高く、政を執り行う。
朝廷はようやく本来のあるべき姿となったのだ。
後鳥羽天皇の中宮、兼実の長女、任子は二十歳になった。
父は、以前にも増して足繁く任子の元に通ってくる。
中宮である任子に対して臣下の礼を取りながら、
ー 一日もお早く皇子のご誕生を
と繰り返し申し述べる。
― もし皇子ご誕生となれば、その皇子は直ちに立太子となりましょう。
平清盛は、長女、徳子を高倉天皇の中宮とし、おふたりの間に皇子がご誕生になると、その皇子が三歳(満年齢では一歳三ヶ月)の時に、まだ二十歳(満年齢では十八歳六ヶ月)だった高倉天皇を譲位せしめ上皇とし、天皇に即位させた。
平清盛は、天皇の外祖父となった。
が、それは、もう長きにわたって全盛を誇っていた藤原氏が行っていたことである。
区別のため九条の姓でよばれている兼実も、言うまでもなく藤原氏。
ー 父は、一日も早く天皇の外祖父になりたいのであろう。
兼実はそこまで露骨に口にはしない。が、父がそれを望んでいるのであろうことを任子は察した。
ー しかし…
任子は思う。
後鳥羽は十三歳になられた。まだ大人にはなられていない。
が、女性に対する男性の気持ちは既に芽生えられている。
― が、後鳥羽が大人になられて、果たして私は、主上(話し言葉の際は「おかみ」とお読みください)に、寵せられるのであろうか。
二年前に入内して以来、任子と後鳥羽は姉弟のように睦まじい関係を築いてきた。
任子の優しい人柄は、後鳥羽の心を捉えてきた。
が、ここにきて任子は、自分の大人しさ、華やかさに欠けた容姿を後鳥羽が物足りなく思われ始めているように感じる。
男性としての後鳥羽は、別のタイプの女人を求めているのではないかと感じる。
そして後鳥羽は、父、九条兼実のことが好きではない。
故実に厳格で、朝廷でも古くからの礼に則った挙措、言辞を求め、それに反することがあれば手厳しく指摘する。
主上に対してもそれは例外ではない。
いや、主上に対しては、他にも増して厳格に求められる。
ー 主上は、父の口煩さに辟易しておられる。
父の望むような将来がやってくるのであろうか。
父を喜ばせてあげたい。
そして主上に親しく睦み、愛していただけたら。
任子はそう願う。
が、任子にはどうすることもできない。
時代に君臨する九条兼実。
その兼実に対して、頼朝より「大将軍」の称号付与を求める望みが寄せられた。
鎌倉に武家政権を創始した頼朝は、従来の「将軍」を超える権威を求めたのである。
建久三年(1192)七月。
坂上田村麻呂の吉例に則り、源頼朝に「征夷大将軍」が宣下された。
位階は正二位。
この高い位階が合わせて付与されたことにより、征夷大将軍は、従来の東方の軍事司令官という意味合いから、軍事に基づく政権担当者という意味合いになったのであった。
将軍府の設置が正式に認められることになるわけであるが、この武家政権について「幕府」
と称するようになるのは、江戸時代中期以降である。
頼朝の時代、幕府と呼ばれることはなかったわけですが、本小説では便宜上、以降は幕府という呼称を使わせていただくことになると思います。