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北条義時  作者: 恵美乃海
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29 後鳥羽即位の経緯と土御門通親

土御門通親が、やがて摂政である九条兼実と互していくことになるだけの力を持ち得た理由は、妻の(藤原)範子が後鳥羽天皇の乳母であったということも大きいであろう。


範子は、もともとは、平清盛の義弟(清盛の正妻、時子の異父弟)で、僧侶となった能円の妻であり、能円との間に、在子(ありこ)という娘が生まれる。


後鳥羽天皇が生まれた治承四年(1180)は、同年八月に伊豆の流人であった頼朝が挙兵した年である。


つまり朝廷においては、まだ平家が専横ともいうべき力を保持していた、ということになる。


同年の三月には、高倉天皇の長男、第一皇子で、平清盛の長女、徳子を母とする、治承二年(1178)年生まれの言仁(ときひと/後の安徳天皇)が三歳(満年齢では一歳三ヶ月)で、天皇に即位する。


 後鳥羽天皇(お名前は尊成(たかなり))は、高倉天皇の第四皇子である。


第一皇子と二歳年下の男子が第四皇子。

唸ってしまうが、第二皇子(守貞)、第三皇子(惟明)は、治承三年(1179)生まれである。


この中では、第二皇子と第四皇子である後鳥羽は、同母である。母、藤原殖子は、中宮である徳子に仕えていたが、のち高倉天皇に召されて典侍(ないしのすけ/女官)となった女性である。


 天皇に対し、正式に入内する女性は、女御、あるいは更衣という呼称となり、その中から皇后に相当する中宮が選ばれる。


が、正式に入内したわけではない女官である典侍が母となる皇子、皇女も多かった。


高倉天皇については、中宮である徳子がいただけで、

女御も更衣も存在しない。

正式に入内された后妃は、徳子だけだったということになる。


第三皇子の母は、平範子。平という姓だが傍流で身分は低かったようである。

やはり女官だが、典侍に従う掌侍(ないしのじょう)であった。


第一皇子、言仁親王が天皇となった翌治承五年(1181)一月、先帝、高倉上皇は二十一歳の若さで崩御される。

満年齢でいえば十九歳四ヶ月である。

お子様は、皇子四人の他に皇女が三人おられた。


中宮、徳子のお子様は第一皇子の安徳のみである。徳子は、高倉天皇より六歳年上である。


なお、上皇の正式名称は、太上天皇であり、上皇はその略称である。

ただし、現在の上皇陛下の上皇は、太上天皇の略称ではなく、上皇が正式名称なのだそうである。

つまりこの国の歴史の中で、その典拠のない新しく作られた名称ということになられる。


上皇后、皇嗣も、歴史上の典拠のない、新しく作られた名称である。


皇室というのは、この国の古来からの伝統のその象徴となられる存在と拝察する。

作者としては、お三方には、歴史上典拠のある、太上天皇、皇太后、皇太弟をそのご称号としていただきたかったと思う。


そこだけ伝統を守られても……古来からの伝統ある女官の制度は…

という声があがってしまうかもしれませんが。


寿永二年(1183)七月、その前月の倶利伽羅峠の合戦で、源(木曾)義仲に大敗した平家一門は、義仲の上洛を前に都落ちするが、第二皇子の守貞親王もこの都落ちに同行することになる。


なお、都落ちに際して、平家一門は、朝廷の最高権力者である後白河法皇もともにと意図していたが、後白河はその前に行方をくらまして、京にとどまった。


当今(とうぎん/当代の天皇のこと。なお在位中の天皇は今上(きんじょう)天皇です。今の天皇陛下は、ご退位されたあとは、明治以降の慣例に従って令和天皇となられるでしょうが、現在の呼称は今上天皇です。

本小説の冒頭にも書きましたが、後白河、安徳、後鳥羽などの呼称は全てご退位後の呼称なのですが、便宜上、登場人物のお名前としてその呼称を使っております)の安徳が西国に連れ去られてしまった後白河法皇は、安徳がまだご健在であられた時期に、京において、別の天皇を即位させることとした。


第三皇子、惟明親王と、第四皇子、尊成親王を居室に引見したところ、

惟明親王はひどくむずかってしまったが、尊成親王はご機嫌よく、後白河になつかれた。


尊成親王が、天皇に即位することとなった。



その挿話よりも前の時期となる平家の都落ちの際、平清盛の正妻、時子の異父弟である能円は、妻の範子と、妻が乳母となっている尊成親王も同行させんとしたが、範子は尊成親王とともに、京にとどまった。


尊成親王の即位により、藤原範子は天皇の乳母となった。その範子に、土御門通親が接近した。


正室が不在であった通親は、範子を正室とした。

そしてその娘、在子を養女とした。


なお、範子の前夫、能円は、壇ノ浦の合戦で捕虜となり、文治五年(1189)に、ようやく京に戻るが、その時範子は、土御門通親との間の三人目の子供を懐妊していた。







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― 新着の感想 ―
[良い点] 『北条義時』完結、お疲れ様です。 凄い、一気呵成というか凄いというしかない。 執筆には、勢いというものが必要なのでしょうかねえ。 私は、読むのも書くのも遅いです。じっくり味わいながら、…
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