28 われもはや 姫の前 得たり
われもはや 安見児得たり 皆人の得かてにすとふ 安見児得たり
ー 俺は安見児を我がものとしたぞ 皆が望んでも手に入れることはできない安見児を我がものにしたぞ
臨終に際して「大織冠」の冠位と「藤原」の姓を賜った、中臣鎌足の歌である。
大織冠は冠位の最上位だが、この冠位を授かったのは、史上でも鎌足だけである。
のちに公卿の高位をほぼ独占することになる藤原氏は、鎌足より始まる。
中臣鎌足は、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに、時の権力者、蘇我入鹿を弑したクーデター、大化の改新の首謀者。
上記の歌は、その鎌足が、天智天皇の采女(うねめ/女官)の中でもとびきり美しかった安見児を天智天皇から賜ったときに詠んだものである。
采女は、飛鳥時代、地方の豪族がその娘を天皇に献上したことを起源とする。
采女は、天皇に近侍し、食事など日常の庶務を行う職である。
が、若い娘であること。さらには容姿を厳選すること、などの規定があった。
結果的に天皇の妻妾となることも多かったわけだが、地方豪族で郡司クラスの出身となる采女を生母とする子は、皇族や中央豪族出身者を生母とする子に比べて、その身分は低くなる。
いずれにしても采女は天皇の独占物である。
容姿端麗な娘ばかりの采女の中でも、一際美しかった
安見児。
その安見児を賜った鎌足の得意や、思うべし。
中臣鎌足は冷徹な印象の強い政治家である。
その鎌足が、こんな素直な喜びに溢れた歌を詠んだのかと思うと何やら微笑ましい。
率直で明快、技巧をほどこすことのないこの歌は、秀歌として高く評価されている。
建久三年(1192)九月二十五日、姫の前は、正室として北条義時に嫁いだ。
頼朝は義時に
― 絶対に離縁いたしません
との起請文を書かせた。
姫の前は二十一歳。義時は三十歳になっていた。
嫁ぐにあたって、姫の前は、自分がかつて頼朝に語ったことを義時に告げた。
殿がそのご器量を高く評価されており、いずれ御家人の中で最も上にたつことになるかもしれない、とおっしゃられたので嫁ぐ気になったのだ、ということも包まずに話した。
頼朝の言葉を聞かされたとき、義時の表情に少し驚きが走ったが、何も言わず、姫の前の言葉を静かに受けとめた。
嫁いで数日もたたない内に、姫の前は、北条義時という人物が自分が想像していたのとは、いささか異なるのに気づいた。
普段の義時は想像と異なることはない。冷静で激することはなく寡黙。自分の周りで起こっていることを静かに受けとめている。そんな印象である。
が、姫の前とふたりになると。
その表情が一変するのだ。
にこにこと。
「姫の前、姫の前」と
何かと話しかけてくる。
話題はさして面白いものでもなかったが、どういう話をしたら妻が喜んでくれるのかと懸命に考えているのが手に取るように分かる。
たまに、その話に
「まあ」
と言ってよい反応を返すと実に嬉しそうな顔をする。
― この人は、私を妻に得たことが嬉しくてしかたないのだ。
そのことが姫の前にもよく分かった。
嫁ぐ前、義時は姫の前に、実に頻繁に文を寄こした。
たしかに、その中には時に、義時の印象には似合わない情熱的な言葉も書かれていた。
が、それはそのような文を書く場合の決まり、修辞であろう、と姫の前は思っていた。
姫の前は、頼朝が好きだった。その人の正室となることを夢みた。
が、頼朝は自分に執心してはいたが、その逢瀬は限られていたし、頼朝は自分ひとりを愛しているわけではない、ということも感じざるをえなかった。
少ない逢瀬に、この人を私一人に振り向かせん、と、姫の前は務めた。
もっと頻繁に会いたいと思われるようにしなければ。
おのれが際立った美貌の持ち主であるということは、姫の前は充分に認識していたので、それは容易いことのはず、と姫の前は思っていた。
が、その懸命な気持ちも、頼朝の懐に全てすくい取られてしまう。
御所様が、必要としているのは、自分の女としての部分だけ。
いつしか姫の前はそう思い知らされていたのである。
義時は、姫の前を実家ではなく、おのれの館に居することを望んだ。
自分のことが好きで好きでたまらないという人と毎日をともに暮らす。
姫の前にとって、それは初めての経験だった。
頼朝様と次はいつふたりであえるのか、そんなことばかりを考え続けた日々……
その日々のことを、いつしか姫の前は、遥か遠き日の夢のように感じるようになった。
翌年、嫡男となる朝時が生まれた。
庶長子、金剛は、その時十一歳になっていた。




