27 朝廷の複雑な政治状況
色々と検索している内に、これは重要な人物だったなと感じる人物を書きもらしていたことに気がついた。
一条能保、という人物である。
源頼朝と同年齢である。
その一条能保の正室が頼朝の妹なのである。
一条家が、摂政・関白になることのできる摂関家としての家格を持つようになるのは、九条兼実の曾孫からで、この時の一条家の家格はさほど高くはなかった。
源頼朝が、母を同じくする弟妹は、希義と坊門姫の二人だけだが、希義は治承四年(1180)に戦死しているので(寿永元年(1182)説もあり)、頼朝にとって坊門姫は存命する唯一の同母兄弟姉妹であった。
(坊門姫、生年は不明なので姉なのかもしれません)。
平治の乱後、頼朝、希義は流人となったが、坊門姫は、京で源義朝の遺臣に匿われ密かに育てられ、長じて一条能保の妻になった。
坊門姫を妻とした時は、一条能保は官職に恵まれず不遇な時期であった。また年齢からいって、その時の頼朝は、挙兵前の流人時代であったろう。
頼朝が権力者となると、その威光を背景に、能保は従二位・権中納言に栄進する。
それは当時の一条家の家格からいえば、異例の栄進であった。
頼朝は九条兼実と提携を結ぶ以前に、朝廷内に自らの政治力の及ぶ橋頭堡を持っていたということになる。
源頼朝の親派という点で一致するはずの九条兼実と一条能保だが、ふたりは不仲であった。
有職故実に詳しく、古来からの秩序を重んじる九条兼実にとっては、さほどの家格でもないのに異例の栄進をする一条能保のような存在は容認できないのであろう。
と書いてみたが、さらに検索すると、一条能保の娘は、九条兼実の次男、良経に嫁いでいる。
九条兼実が、一条能保のことを決して相容れることのない存在と考えていたのであれば、そういうことにはならないであろう。
九条良経と一条能保の娘が、ロミオとジュリエットのような関係だったとすれば、説明できそうだが、そこまで話を広げてしまっては、訳がわからなくなってしまう。書いている本人が訳がわからなければ、それを読まされる方はもっと訳がわからないであろう。
京都の方は、心の中では何を考えているのかよくわからない、言われたことをその通りにとってしまったら、
「察することのできない野暮なお人」と軽く見られてしまうようだが、こうやって色々読んでいると、
なるほどなあ、と思う。
あと歴史の上で何か仮説をたてると、その仮設にとって都合のよい資料だけ引用して都合の悪い資料は無視する、ということもよく言われるが、これまたなるほど、そうだよなあ、と思う。
私もそうすることにします。
一条能保は、むしろ後白河法皇のお気に入りであった。
後白河法皇にとって、頼朝と関係の深い一条能保を自身の懐に取り込むことは、政治的に大きなメリットがあると判断したのであろうが、このあたりの人間関係、心理関係は複雑である(複雑である、の一言で済ませましょう)。
さらにもうひとり人物を登場させる。第13章でちらっと名前を出したが、土御門通親である。
九条兼実と同年齢である。
九条兼実との仲は当初は悪いものではなかった。
文治四年(1188)一月、この時、土御門通親は四十歳。
位階、官職は、一条能保と同じく従二位・権中納言。
九条兼実の長男、良通はこの時点では存命で、二十二歳であったが、既に正二位・内大臣兼左近衛大将となっていた。
兼実は、さらに次男で二十歳の良経、この時、従二位・左近衛中将だったが、官職はそのままに、その位階を正二位に進めた。
土御門通親は、兼実に自分も同じく正二位に叙するよう求めたが、兼実は拒否した。
通親は、まだ二十歳の若輩者が自分の位階を飛び越えていくことが許せなかった。
兼実にとっては、従一位・摂政である自分の息子をそれに相応しい処遇をするのは当然のことである。
通親の抗議について、兼実は、
前年、従二位に叙してやったのに、その恩も忘れてこのようなことを言ってくるとは、禽獣のごとし。
と、その日記「玉葉」で罵倒している。
土御門通親は、九条兼実を恨んだ。
翌文治五年(1189)一月、土御門通親、正二位に昇叙。
兼実が譲歩せざるをえない、政治的圧力があったのであろう。
文治五年(1189)年十二月、後白河法皇の末の皇女、覲子が、内親王宣下を受けると、土御門通親は、勅別当としてその後見人の立場を得る。
その少し前、十月に後白河法皇に莫大な進物を奉ったという記録が残る。
このことにより、土御門通親は、覲子内親王の生母で、後白河法皇に寵愛されていた美貌をうたわれた丹後局との結びつきを深めた。
建久二年(1191)四月、鎌倉政権では文官筆頭の大江広元が明法博士兼左衛門大尉に任官する。異例のことであり、土御門通親の計らいによるものであった。
大江広元が関係を強めていた公卿は、通親であった。
数日後、
ー いずれ頼朝の娘(大姫)が入内するのではないか
という風聞が兼実の耳に入る。
大江広元が任官したことにより出た噂であろう。
同年六月、覲子内親王に院号宣下があり、覲子内親王は、宣陽門院となる。
土御門通親は、宣陽門院執事別当となりその家政を掌握し、政治的地歩を築いた。
七月、丹後局に呼ばれた兼実は、局から兼実の家司(けいし/親王家や高位の公卿家などに設置される家政を司る職員)
が書いたという、法皇を呪詛する内容の落書を示され釈明を求められる。
十一月、兼実は、後白河法皇に呼ばれ、一条能保の子、高能と、丹後局と前夫の間の子、山科教成を、それぞれ近衛中将と近衛少将に補任との諮問を受けるが、法皇の意あるところを汲まない兼実の返答は、後白河の逆鱗に触れた。
兼実は、玉葉に
ー 執政といえど何の権力もなく、摂政といえども協力者はいない。薄氷は破れた。虎の尾を踏んでしまった。
我が身はもはや、半死半生。
ー 愚かな我が身は、後白河院からは、他に並ぶものがないほど遠く隔たってしまった。もうほとんど謀叛の首魁のような扱いを受けることになってしまった。
と記した(注 作者の意訳です)。
十二月十七日、九条兼実に対し、関白及び准摂政が宣下された。
摂政は、天皇が幼少である等の理由により、政務の大権を全面的に代行するが、関白は成人となった天皇の補佐役であり決裁者は天皇になる。
後鳥羽天皇は、このとき十二歳。まだ幼少であるので、これは兼実の持つ大権を制限しようとする後白河法皇の
意向がはたらいていたのであり、兼実を失脚させるための第一段階としての措置だったのではないかと推測する。
九条兼実は、追い詰められようとしていた。
が、その年の暮れ、後白河法皇が体調を崩し、病の床につく。
翌建久三年(1192)、三月十三日。
後白河法皇崩御。




