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北条義時  作者: 恵美乃海
22/70

22 奥州藤原氏の滅亡

阿津賀志山の戦いに勝った鎌倉軍はそのまま北上し、八月十二日、泰衡が退去したあとの多賀城に到着。

この日、この地で、東海道軍と合流した。


一方、北陸道軍も、十三日、田川行文、秋田致文軍を破り、出羽方面を制圧した。


二十二日、鎌倉軍は、平泉に到着したが、泰衡は、既にこの地からも逃亡。

平泉には火が放たれていた。


二十六日、平泉とどまっていた頼朝の元に、泰衡からの赦免を求める書状が到着したが、頼朝は一瞥しただけで投げ捨てた。


九月二日、厨川を目指して、頼朝は平泉を出立した。

厨川は、前九年の役において、頼朝の五代祖、源頼義が、安倍貞任に勝利した地であった。


三日、逃亡中の泰衡は、郎党に殺害された。

四日、陣岡にて、北陸道軍が合流し、鎌倉軍がひとつに集結した。

六日、泰衡の首が頼朝の元に届いた。


頼朝は、源頼義が安倍貞任の首を晒した故事にならって、その首を晒した。


十二日、厨川に入った頼朝は、十九日までその地に逗留。残敵の掃討、降伏する者の受け入れ、一部の者の所領安堵などの処理に務めた。その間、十八日、秀衡の四男、高衡が降伏、捕虜となった。

高衡は、斬られることなく、秀衡の六人の息子の内、ただひとり生き残ったのであった。


厨川を発った頼朝は、再び平泉に戻った。



清衡、基衡、秀衡。 平泉に華麗な文化を花咲かせた

奥州藤原氏は、三代百年にして滅亡した。


奥州は、鎌倉政権の統治する地となった。








やっぱり合戦シーンを詳細に描くのは面倒くさいです。

まことに申し訳ありません。


ご興味のある方は、ウィキペディアで「奥州合戦」を検索してお読みください。

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