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北条義時  作者: 恵美乃海
18/70

18 奥州の備えは如何に

平泉。


二十万騎をはるかに超えると思われる鎌倉軍をいかに迎え撃つか、軍議の場は、国衡が主導した。


ー この軍議は重要だ。

鎌倉大挙して来たれり、の報を聞き奥州は浮足立っている。その動揺を鎮め、団結して迎え撃つべく人心をまとめねばならぬ。


席に連なる奥州諸将を前に、盟主、泰衡が軍議の口火を切った。


「我が奥州は、総勢十七万騎。鎌倉は総勢二十八万四千騎と号しておる。数では我らが劣勢。いなかる策をもってこれを迎え撃つか、諸将の存念を述べよ」


堂々たる口調を心掛けてはいたが、その中に微かな怯えが混じっているのを国衡は感じた。


泰衡の脇に並ぶ国衡が発言しようとすると、その国衡のさらに脇に並ぶ徳尼公が口を開いた。

父、秀衡の正妻。 泰衡の母。そして今は、国衡の正妻である。


「おのおの方。鎌倉に対し、泰衡殿は、その求めに応じて義経公を討ち取り、その御首(みしるし)を鎌倉に送った。

泰衡殿にとって義経殿は兄弟同様に育った方、それを討ち取る。泰衡殿は断腸の思いでそれを決断なされた。

それは何故か。ひとえにこの奥州の地を戦乱に巻き込まず、皆々の平穏を保ち、この奥州の繁栄を永久に続けんと、あえて鎌倉に恭順の意を示された。


しかるに鎌倉は、泰衡殿のその意を汲まず、なんのかのと無体な言いがかりをつけ、この奥州を攻めんとする。


鎌倉は、修羅道に堕ちた邪悪なる軍、仏が許そうはずもなし。

おのおの方、この奥州の太平を守ってくりゃれ。そして、この世に在りし日の秀衡公の慈愛に満ちたお顔を思い出してくりゃれ。

秀衡公のご恩に報いるはこのときぞ」


うおー、との諸将のどよめきが座を覆った。


ー 見事だ

国衡は、思う。


ー 徳尼公に、この軍議への出座を願って良かった。

徳尼公おわせば、諸将は、この平泉に絶大なる繁栄を齎した秀衡公在りし日に思いを致す。

ただ席に連なっていただけるだけでも、と思っていたが、これほどの、諸将の奮起を促す弁を申されるとは。


妻とはいえ、おのれより二十歳近くも年上。が、父の愛したその人に、女性としての残り香はある。

国衡が、幼少時から青年時代にかけて心密かに憧れていた義母。今は、おのれの正妻、徳尼公。


父が

ー 徳尼公をそなたに譲ろう

と申された時は、


ー 何と奇態なことをおっしゃられるのか


と思うたが、この方とともに日々を過ごすうちに、この方を正妻とすることの、その意味を思い知った。


それまでは心の中に、長男でありながら、弟を主君と仰がねばならぬことに忸怩たる思いがあったが、儂はその主君の義父であるとなれば、その我が身の重さに、弟に対する忸怩たる思いも消え失せた。


むしろ、泰衡を立て、心より協力し、そのことにより、この方を喜ばせて差し上げたい、そんな気持ちになった。

我が父は、やはり並々ならぬご慧眼を持っておられたのだ。



さて、徳尼公に続いて、この座をさらに振るいたたせねば。


「諸将よ。このいくさ、我らは合戦に勝つ必要はない」


諸将は、一体、何を言うのかと怪訝な顔をして、国衡を見やった。


「鎌倉は、大軍を率いての奥州への長駆遠征。地の利は我が奥州にあり。

我らがなすべきは、数に勝る鎌倉を合戦にて撃ち破ることではない。


大切なのは、ひたすら守ること。そして、いくさを短期で決せず、長期に持ち込むこと」


「いかなる策にてそれがなりましょうや。お聞かせくだされ。国衡殿」


「おお、佐藤基治か。うむ、では述べよう」


国衡は、泰衡の方を見た


「構いませぬかな。泰衡殿」


盟主である泰衡の顔を立てた


「おお、構わぬぞ、兄上。儂も聞かせてもらいたい」


「我が奥州の都、平泉は、奥州全体の中では北に寄った地。また、この平泉の地には、鎌倉の一兵たりとも踏み込むこと能わざるは、言うまでもない」


国衡は、用意していた地図を広げた。


「本拠はここ多賀城に置く」


多賀城。古からの、陸奥国司が置かれた地。平泉以前、奥州の中心であった地である。


「泰衡殿は、この多賀城にご出座あれ。多賀城の地にて五万の兵にて、奥州の軍全体を総覧されたし」


「あい分かった」


「鎌倉の大手軍が進むは間違いなく奥州街道。大軍となればそうせざるを得まい。では、我らはどの地で、鎌倉を迎え撃つか」


国衡は、広げていた地図の一点を指し示した。


「ここだ。伊達郡と苅田郡の境。阿津賀志山麓から阿武隈川の水を引いて、この地を長大な堀となし、さらにはここに、全長二千間にも達せんとする三重の防塁を築き、ここで鎌倉の大手軍を防ぐ。」


おお。

これはなんとも壮大な。


そこここで賛嘆の声があがった。

この防塁には、二万の兵を配備する。その兵は儂が率いる。金剛別当秀綱は、儂を補佐せよ」


「かしこまって候」


「佐藤基治は、防備の脇陣、やはり二万の兵をもって、阿武隈川の支流、小川、赤川、摺上川を堀として大鳥城に陣を構えよ。

そして、田川行文、秋田致文」


「応」


「応」


「鎌倉は北陸から出羽方面にもやって来よう。四万の兵にて出羽を守れ」


「承って候」


「その余の兵は、海道の防備に。そして、多賀城と阿津賀志防塁の間に配備。防塁の後詰、代替の兵として。さらには時に遊撃軍として戦況を見ながら、鎌倉大手軍の側面、後背を襲う」


ー これでは、兵力ではるかに勝る敵兵に対し、それよりも少ない兵で個別に守ろうとするだけ。あるいは拙劣な兵略なのかもしれぬ。

が、我が兵力を集中させれば、守り薄き地を攻め立てられ、簡単に敗れ、我が奥州はそこから総崩れとなろう。

いくさを長期戦に持ち込むためにはやむをえん。


いずれにしても戦いの帰趨は、阿津賀志で決まる。なんとしても守り抜かねば。




………数にまさる敵兵と、自領域内において戦う場合、長期戦に引きずりこみ、ゲリラ的に戦うことは有効な戦略であろう。

が、自領域において長期戦を企図するということは、領民の多大な犠牲を伴う戦略でもある。


己の勝利のために、この国の不文律を無視して壇ノ浦において、戦闘人以外の水主、水夫を戦闘前に射殺した義経。

が、彼の行ったいくさはいずれも短時日で決着し、勝利している。

いくさに関係のない領民には、負担となること最も少なき将であったと言えよう。




本章の中で

海道の防備 は 街道の防備

の間違いであろう旨のご指摘をいただきました。

ありがとうございます。


奥州合戦において、鎌倉軍は、大手軍、東海道軍、北陸道軍と呼称した三軍にて侵攻しましたが、この内、東海道軍は、今で言えば、福島県の磐城近辺から攻め入ったようです。

東海道と称するのが、その当時、その辺りの地方の一般名称だったのか、この奥州合戦に限定した鎌倉側の呼称であったのか、私には不明でした。

で、奥州側については、おそらくその辺りからも攻めてくるであろう敵軍の防備について、現在の東海道が意味する地域ではないということで、海道という曖昧な表現をさせていただきました。

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