13 政を淳素に反す
文治四年(1188)二月、摂政、九条兼実の長男で内大臣の良通が亡くなった。
亡くなる前夜は、兼実と語り明かしており、急死だった。
兼実は、大きな衝撃を受けた。
九条兼実は、「政を淳素に反す」ということを念願にしている。
様々な仕来り、昔からの決まりごとを、上下ともどもきちんと守り、それによって簡素で穏やかな太平の世をもたらす。
それが兼実の理想だった。
この国は、弘仁元年(810)の薬子の変において、藤原仲成が処刑されたあと、保元元年(1156)の保元の乱で、崇徳上皇側についた源為義、平忠正らが処刑されるまでの346年間、死刑の執行は一度もなかった。
そう、それがこの国の本来の姿なのだ。
だが、保元の乱からの三十年、この国は戦乱にまみれた。
今、いくさで敗れた武者は簡単に処刑される。
「政を淳素に反す」
それが、今のこの国の実情から遊離した理想であることは、兼実にも分かっていた。
武士は力を持った。
いかにこの国の官位のその高みを独占していようとも武力を持たない公卿、そして朝廷は、武威の前では無力である、ということを武家は知ってしまった。
だが、朝廷は、権威は保持している。あの平清盛も太政大臣となり、高い官位の多くを平家一門で占めたが、自らが帝位をうかがうというようなことは、決してなかった。
今、鎌倉で武家による独立政権を形成しようとしている源頼朝もそれは同じ。
武力を持たないからこそ、様々な勢力の上に権威をもって超然と君臨する朝廷。
皇家とそれを輔弼する公卿。
そういう政のありかたは、この国においては可能なはずだ。
兼実は、今の朝廷において、独裁的な力を揮う後白河法皇のことを思った。
兼実は、後白河が好きではなかった。肌に合わなかった。
鳥羽天皇の四男としてお生まれになり、将来、帝位につかれるなどということはご自身も周りも想像もされていなかった。
後白河は、のびのびと自由にお育ちになられた。
しばしば、御所から牛車を出して、都の庶民の暮らしに、大きな興味を持たれた。
庶民の間で流行る今様がお好きで、多くの今様を覚えられ、身分も無き今様の名手を御所に招き入れ師事して、自らお作りになったりもなさる。
ー 遊びせんとて生まれける
兼実は、後白河が作られたという今様の一節を心に思い浮かべた。
軽い。至尊の君が、そのような下世話なものに興味を持たれるとは。
そして、兼実がもっとも嫌悪するのは、後白河法皇のその政治的思考の強さだった。
後白河法皇は、自ら恃むところあつく、直接政治に関わろうとなされる。
その結果はどうだった。平清盛に、木曾義仲に、源義経に、そして今は、頼朝に。
武力を持った、時の権力者に利用され続けただけではないか。
武力を背景にした宣旨の要請を拒絶することは困難、それは兼実にも分かる。
だが、それは臣下が対応すべきこと。帝王は、我関せずと超然としていなければならない。があの方は、自らのご意志でそれをなされ続けてきた。
武の権力、今、いずこにありしか、とその時々の状勢をみながら。
それはあるべき帝王の姿ではない。
兼実は、当今(とうぎん/当代の天皇)、後鳥羽天皇をおのれの思い描く理想の帝王に育てようと決意していた。
ー そのためには、何としても任子を入内させねば。
主上は、今九歳。任子は十六。来年か、再来年には。
任子の入内。
その障壁となるのは、後白河法皇。
法皇が、兼実を摂政としたのは、頼朝の推挙を拒めなかったから。
後白河もまた、おのれのことを好いていない、ということは兼実にはよく分かっていた。
その後白河法皇のお気に入りは……
権中納言、土御門通親。
良通亡き後は、次男の良経を高位につけねばならん。
頼朝の支持があるのだ。
我が家門の基盤を確固たるものにしなければ。
宮廷における権力闘争。
「政を淳素に反す」
その理想を実現するには、避けては通れない。
しかし、兼実には、気が重かった。
自らを中立の立場におき、どの権力者にも阿ることなく、腹がたったら、若き日から続けている日記「玉葉」に、不平不満を書き記す。
それが、自分の性に合っているのだ、ということは兼実には分かっていた。




