10 動員令
文治五年(1189)六月、頼朝の元に、後白河法皇からの書状が届いた。
ー 義経滅亡となれば、この国もようやく静謐の時を迎える。今においては、弓箙を袋にすべし(もう、弓も箙(えびら・矢を入れて背に負う容具)も袋にしまったままとなろう)。
その書状に対する頼朝の返書は、藤原泰衡追討の宣旨を求めるものだった。
頼朝は全国に動員令を発した。
その知らせを受けて泰衡は動転した。
「何だと、義経の首級は酒に浸けて鎌倉に送った。恭順の意も示した。何故だ」
動員令には、罪人、源義経を長期にわたって匿ったことを咎める言葉があった。
ー 謀られたのか。あの起請文は何だったのだ。
ー 鎌倉が、関東の武者輩が、この奥州に攻め入って来るというのか。その総力を挙げて。
泰衡は慄いた。
泰衡は、おのれが討ち滅ぼした義経のことを思った。
ー かの君は正しかったのだ。九郎君はたしかに言われた。平家が滅亡したのだ。鎌倉はその総力を挙げて奥州を攻めると。
ー 今、かの君が在れば、兵権を委ね、対鎌倉戦の指揮をとっていただけたのだ。かの君が奥州十七万騎を率いれば、鎌倉がそれに勝る兵力で攻め入って来たとしても、よも遅れをとることはあらまじ。
ー が、九郎君は、もうこの世にはいない。滅ぼしたのは、他の誰でもない。この儂。
泰衡は、おのれの所業を呪った。笑うしかない。
ー 何とか、何とか、生き延びる手立てはないか。
戦わずして降伏すれば、命だけは…
が、それではあまりにもおのれが惨めではないか。
ー 儂は愚者だ。だが、愚者は愚者なりに
泰衡は、兄、国衡を呼んだ。
軍議を、軍議をせねばならぬ。
鎌倉、大倉御所。
軍議
「奥州を征伐する」
頼朝が告げた。
評定の場は大きなどよめきに包まれた。
座に連なる諸将は、我も我もと、先陣を願い出た。
「では、陣立てを触れる」
喧騒は、一瞬にして静寂に変わった。
「東海道軍、主将は千葉常胤。副将は八田知家。
常陸、下総の武士団を率いて、奥州の東南端、岩城郡から攻め入れ」
常胤、知家が喜びに溢れた顔で
「応」
と答えた。
「北陸道軍、主将は比企能員、副将は宇佐美実政。
上野の武士団を率いて、越後から出羽方面へ攻め入れ」
「応」
「応」
「そして大手軍は、この儂が率いる」
評定の場は、うおーという大歓声に包まれた。
鎌倉殿、源頼朝が、直接軍勢を率いて戦場に立つのは富士川の合戦、そしてその翌月の常陸攻め以来のことであった。
頼朝討伐の命を受け、平重盛の長男、清盛にとっては嫡孫にあたる維盛を総大将とする平家五万の軍勢を富士川で迎えうった合戦。
石橋山の合戦で敗れ、海上を安房国に逃れた頼朝一行は、房総半島から本拠と定めた鎌倉に向かうまでの間、
長年の平家専横の時代を雌伏していた関東の武士団は続々と頼朝の元に駆けつけた。
関東武士団は、担ぐべき頭首を見出したのである。
清和天皇の末裔、貴種、源頼朝。
富士川の合戦において、頼朝は、二十万の大軍を率いたのであった。
対岸の平家軍は、その大軍に驚き怖れ、夜、何かのことで一斉に羽ばたいた水鳥の音を夜襲と勘違いして、戦わずして逃げ帰ったのであった。
「御所様、おん自らご出陣いただけますか。御所様のご勇姿をまた仰がせていただける。欣快の至りでございますぞ」
「おお、義盛。お主には、儂の帷幕にあって全軍を総監してもらうぞ」
「はは」
「そして、大手軍の先陣は」
諸将が息をのんだ。
「畠山重忠。お主だ」
「応」
二十六歳の若き武将の顔が輝いた。
「その余の諸将にも存分に働いてもらうぞ。奥州十七万騎といえども、太平に慣れた、いくさの経験などほとんどない輩。
わが鎌倉は、治承・寿永の乱を戦い抜いてきた歴戦の強者ども。鎧袖一触、散々に奥州を討ち滅ぼそうぞ」
鎧袖一触。そう、どう考えても、負ける道理がない。
奥州の軍に、あの義経はいないのだ。
「軍勢の出立は一月後、各々はそれぞれの所領にて兵を整えよ」
世に言う、奥州合戦が始まる。




