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北条義時  作者: 恵美乃海
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1 平泉の義経

来年、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役、北条義時を主人公とした小説です。

とりあえず、史実をもとにして書き始めました。

これからもそのつもりなのですが、もしかしたら、

投稿済の拙作「太閤秀吉」のような、史実を無視した荒唐無稽なお話になるかもしれません。


小説の中で安徳天皇や、後鳥羽天皇が登場しますが、安徳、後鳥羽というのは、退位後、追贈される名なので、在位中にそう呼ばれることはあり得ません、

が、基本的にその名で登場させていただきます。


また、小説中の年齢は、歴史物の通例に従って数え年です。生まれた年が1歳で、暦で新しい年になったら1歳増えます。従って満年齢では、小説中の年齢より1 〜 2歳、少なくなります。


尚、本小説の参考文献は、ほぼウィキペディアです。

源義経は、奥州平泉の地で慨嘆していた。


ー何故、こんなことになってしまったのだろう。


と。


ー儂は、父、義朝の敵であり、あの栄華をほしいままに、驕りたかぶっていた平家一門を滅ぼした殊勲者ではないか。


義経は、平家を滅亡に至らせた三つの戦いを思い起こす。


馬は不可能と、案内の猟師に言われた鵯越の急峻を一気に駆け下り、平家の大軍を背後から襲い、一気に蹴散らし、須磨の海に追いやった一ノ谷の合戦。


敗戦後、平家一門は、四国の讃岐に退き、一門が供奉する安徳帝の行在所を瀬戸内の海に面する屋島に置いた。


義経は、船での渡海は不可能と言われた、嵐吹きすさぶ荒天の日をあえて選び、五艘の船を仕立て、わずか百五十騎で、阿波の国、勝浦の地に上陸。

その地から一気呵成に駆け、屋島を背後から襲い、屋島の地に居する平家一門を、再び瀬戸内の海に追いやった。


一ノ谷、屋島の両合戦は、騎馬のもつ機動力を最大限に活かし、小勢で大軍に勝利した。


そして、更に瀬戸内の海を西に逃れた平家一門との、関門海峡、壇ノ浦での合戦。


源氏の本軍であった、異母兄、範頼が率いる大軍は、その時点では九州の地を固めていたので、残された平家一門は、壇ノ浦で戦うしかなかった。

しかし、壇ノ浦の合戦は、一ノ谷、屋島とは異なり、平家の得意な軍船による海戦。

義経には、海戦の経験はなかった。


が、義経は、それまでは、戦いに無関係なものは決して死傷させてはならない、というこの国にあった不文律の禁を破り、操船するために雇われていた水夫たちを、先ず弓矢で射殺すよう命じ、平家の軍船の動きをままならなくさせ、潮流にも乗り、この海戦でも勝利した。


合戦の敗北により、平家一門の名だたる者は、次々に海に飛び込み、藻屑と消えた。


軍事での実質的指導者、平知盛は、碇を体に巻き付き海に飛び込んだ。


闘将、平教経は、己を襲う源氏の武士二人を、その両脇に抱えて海に飛び込んだ。


御年八歳の安徳帝もまた

「海の底にも都がさぶらう」

と告げた、祖母である二位の尼に抱きかかえられて、

海に沈んだ。


そして、皇室にとっては、古来からの、神から繋がるその尊き血脈の証である三種の神器。

神剣、神璽、神鏡

もまた、海に没したのであった。


その後の必死の捜索により、神璽、神鏡は、海から回収されたが、神剣は、結局見つからなかった。


天皇家にとって、その象徴として、決して失われてはならない三種の神器のそのひとつが、このとき失われてしまったのである。


平家との戦いを前に、義経は、源氏一門の棟梁である異母兄、頼朝から、最も優先すべきは、西国に流浪する平家一門とともにある安徳帝こそが今も正統な天皇であることの証として、平家が都から持ち去った三種の神器の確保である、と、厳しく言い渡されていた。


それ失きが故に、安徳天皇の西走後、都で即位した、後鳥羽天皇は、その正統性に疑義を持たれているのである。

三種の神器は、本来、天皇の即位には不可欠の重宝なのである。


が、この国の古来からの伝統などというものに無頓着な義経にとっては、兄がどんなに力説しても、三種の神器など、ただのモノでしかなかった。

頼朝の言うことが心に染みてはいなかったのである。


頼朝からは、三種の神器の返還を条件として、平家一門との和平も選択肢にいれよ、と言われていた。


そのことを余り熱も入れず、形式的に申しいれた義経からの使者が、平家からの「拒否」の回答を持ち帰ると、義経はこれ幸いと、九州の地に陣を敷く範頼にも、頼朝から付けられた、義経軍の軍監、梶原景時にも図ることなく戦いに専心し、平家一門を滅亡に追いやった。


それが頼朝の逆鱗に触れてしまったらしい、ということに義経はようやく気づいた。

それまでは、兄にとっても、平家一門は敵であり、口ではなんと言っても、その滅亡こそ、兄にとっても宿願のはず、と思っていたのだ。


源氏の棟梁であった父、義朝と、平家の棟梁であった平清盛が戦った平治の乱。

そのいくさは、義経が生まれた年に起こった。父、義朝の記憶も、平治の乱の記憶も、義経にあるはずもない。

が、頼朝はその時、十三歳。三男であったが、その母親の身分により、長男の義平、次男の朝長を差し置いて、嫡男の扱いを受けていたという。

源氏重来の家宝、嫡男の証であった鎧「源太産衣」は、頼朝に与えられたという。


頼朝は、平治の乱で、父、兄とともに戦った。敗れたあと、東国にともに落ちのびた。

が、その途上、頼朝は一行からはぐれ、平家の虜囚となった。

父、義朝は、落ちのびる途上、兄たちと別れ、一夜の宿にと立ち寄り、かくまわれた長田忠致の裏切りにあい、湯殿で討たれた。


清盛の義母、池禅尼の情けにより、一命を救われた頼朝は、伊豆の蛭ヶ小島に流された。

不遇の皇子、以仁王の発した令旨を受け、旗上げした三十四歳の年まで、頼朝は流人生活を送った。


平家に対する恨みは、儂よりはるかに大きいだろうに、義経はそう思っていたのだ。


頼朝の勘気にふれた理由はあとふたつ。ひとつは、軍監の梶原景時の讒言。

壮年の男だし、いくさの経験も豊かだ。だがそれだけに軍略についても、その言うことは常識論。

つまらない男だった。発想の飛躍がまるでない。


その景時が、頼朝への報告に、口を極めて義経を批判したであろうことは、容易に察することができた。


もうひとつは、頼朝の許可を得ることなく、朝廷の示した官位を勝手に受けたこと。

が、尊き朝廷が任じた官位。

名誉なことと兄も喜ぶに違いあるまい。

義経は、単純に考え、独断で受けた。


そこに、覇者となった源氏一門の統合の離間を図る、後白河法皇の思惑が潜んでいる、などということに思い至るような配慮は、義経にはできなかった。


平家を滅亡させた義経。

京の都に戻った時は、文字通り、凱旋将軍の扱いだった。


一ノ谷、屋島、壇ノ浦の三つの戦い。その内実は京の人びとの知るところとなり、さらには尾鰭もつき、義経はこの国が始まって以来の天才武将であるかのように持て囃された。


だが、その天才武将は、政治的思考などとは無縁な、単純な男でもあったのである。


意気揚々と鎌倉に向かった義経一行は、鎌倉の手前、腰越の地で留め置かれ、義経の鎌倉入りは拒絶された。

義経は、その地で、のちに「腰越状」と呼ばれる、真情を込めた弁明書を頼朝に書き送ったが、頼朝の勘気は解けなかった。


今はこれまでと、京に舞い戻った義経は、後白河法皇に迫り、頼朝追討の宣旨を受け、兵を募った。


が、義経の募兵に馳せ参じる者は殆ど無かった。


義経の周りには、義経を無二の主君と仰ぐ股肱の家臣だけとなった。


義経は、頼朝の追捕を受ける身となった。

京を離れ、家臣、愛妾の静御前とともに吉野に逃れ、雪の降る中、静と別れた。


九州にて再起をきそうと図り、大物の浦から、瀬戸内の海を、かつて自分が滅ぼした平家一門がそうしたように西に向かったが、嵐にあい遭難。


そのあとは、残った数人の家臣とともに山伏姿に身をやつし、少年時代にその保護を受けた、奥州の覇者、藤原秀衡を頼って、その地に逃れたのであった。



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