激昂
人間達は見た。自分達の撃ち込んだ鉛玉が、大きな鹿の側頭部に当たった瞬間を。
銃弾の速度は音の速さに迫るほどであり、人間の目に捉えきれるものではない。しかし数多の生き物を銃で狩ってきた人間達の経験が、鉛玉の命中を理解させた。
銃というのは強力な武器だ。当たれば人間なんか簡単に殺せるし、刃物が通らないほど分厚い毛皮を持つ獣すら一発で倒せる。この力により人間は最早獣を恐れず、自然を完全に支配する事が出来ると信じていた。
――――もしもアニミスがこのような人間達の考えを理解したならば、「くだらない」と一蹴しただろう。
しかしそれは人間の傲慢さを嘲笑っての意見ではない。自然の征服だとか生き物の虐殺だとか、アニミスはそんなものにはなんの興味もないのだから。アニミスが人間達を小馬鹿にする理由はもっと単純なもの。
こんなちっぽけなもので自分を殺そうなんて、片腹痛いにも程がある。
鉛玉は確かにアニミスの側頭部に命中した。一般的なネジレオオツノジカの頭蓋骨であれば、難なく貫通して脳をぐちゃぐちゃに掻き回しただろう。しかし過酷な環境により鍛え上げられたアニミスの分厚い骨格と皮は、人間達が作り上げた鉛玉を易々と防いでみせた。精々かなり痛いだけだ。
そしてアニミスは、この痛みに反射的な『反撃』を行う。
「――――キュオオオオオオオオォッ!」
アニミスは激しく自らの頭を振るう!
アニミス自身からすれば、これは痛みにより怒り狂っているだけ。折角良い気持ちでいたところを邪魔され、元々怒りやすい性格だったのと相まって、憤怒が爆発した。自分の側頭部に鉛玉が食い込んでいるなんて、気付いてもいない。
しかし物理法則は、行動を起こしたものの意思に関係なく世界を動かす。
頭を振るった瞬間、アニミスの脳天に食い込んでいた鉛玉が飛んだ。無論鉛玉の存在すら気付いていないアニミスには、この鉛玉の行方を決める事など出来はしない。されど反射的に痛みがあった方へと頭が振るわれた結果、鉛玉もまた自分が描いた軌跡を辿るように飛んでいく。
その先に居るのは、アニミスを撃った人間の男だった。
鉛玉は男の眉間に命中……とまではいかない。精々男が身を隠していた岩に当たり、弾け飛ぶだけ。しかし男からすれば、殺した筈の鹿が生きていて、しかも何かを撃ち返してきたようなもの。
「ひっ!? ひぃ!」
予想外の出来事に仰天した男は、悲鳴を上げながら岩の影から出てきてしまう。
岩から出てきた男の姿は、未だ温泉に身を浸けているアニミスにも確認出来た。
「あ! おい! 何してるんだ!」
驚いた男に、近くに潜んでいた中年の男がその行動を窘めた。尤も、中年の男が仲間を窘めようとした理由は、彼の身を案じた結果ではない。
ネジレオオツノジカは天敵が多い、比較的弱い草食動物だ。そのため非常に警戒心が強く、臆病な動物である。これまで物陰に隠れ、距離を取り続けていたのも『鹿』を驚かせないため。人間の姿を見た『鹿』はすぐに逃げ出してしまい、その機敏な動きを銃で止めるのは難しい事を彼等は経験で知っていた。
だが、アニミスは彼等の知る『鹿』とは違う。
人間の姿を見た瞬間、アニミスは遠い……しかしそれでも僅か一年に満たない程度の……過去を思い出す。森でのんびりと暮らしていた時、母が突然死んだあの日の事を。死んだ母の傍に現れた、恐ろしい生物の事も。
アニミスは怒りを抱いた。されど、それは目の前の人間が母を撃ち殺した時に出会った者だからとか、母の仇だからという『人情味』のある理由からではない。獣であるアニミスにとって、母との日々というのは過去の遺物。そんなものに拘ったところで腹は膨れないし、戦いの武器にもならないのだから。ましてや過去の自分が彼等に恐怖していた事など、もっとどうでも良い事だ。
アニミスが怒るのは、奴等が入浴を邪魔した……この一点のみ。
そしてこの一点のみで十分。
立ち上がり、温泉から歩み出たアニミスが――――岩から出てきた男の方へと向かう理由としては。
アニミスを囲う十数人の男達は呆気に取られた。頭に銃弾を受け、更に人間の姿を見た『鹿』がどうして自分達の方にやってくるのか? 理解が出来ず、誰もがその場で固まってしまう。
彼等が状況を理解したのは、アニミスが颯爽と岩の影から出てきた男目掛け駆け出した時。
その時にはもう、何もかもが遅かった。
「えっ、な!? ひっ」
アニミスを撃った男は、アニミスが自分の下に猛然と接近していると気付いた。慌てて銃を構えようとして、けれども山道を難なく駆け上がるアニミスの速度には追い付けない。
アニミスは頭を前へと突き出し、人間達が狙う自らの角を男の腹にぶち込んだ! トラのような頑強な骨がなく、大烏のような分厚い胸筋もない人間の身体は、アニミスの角を止められない。串刺しにされた男は、邪魔だとばかりにアニミスが頭を振るって投げ飛ばされる。
男は大地を転がり、やがて岩にぶち当たって止まる。もう彼は動かない。
即死だ。人間には銃という強力な武器こそあったが、アニミスの攻撃を防ぐような守りはなかった。
もしもこの男が生身でちょっかいを出しただけなら、精々苛立ったアニミスに蹴飛ばされて骨折する程度で済んだだろう。人間が自分に衝突してきた甲虫に対し、そこまで本気の殺意を向けないように。身の丈に合わない攻撃力が、命を奪われるほどにアニミスの怒りを買ってしまったのだ。
人間達は選択を迫られた。即ちおめおめと逃げ出すか、この場に居る全員でアニミスに挑むか。
人間達が選んだのは、後者だった。
「こ……の畜生が! よくもカインを!」
「やられっぱなしでいられるか!」
最初に動き出したのは、年老いた人間達だ。獣を狩る猟師として経験を積み、数多の生き物を仕留めてきた彼等は誰よりも猟師としての矜持を持っていた。ちょっと大柄とはいえ一頭の、ましてや臆病な鹿に遅れを取るなど許されない。その上長年連れ添ってきた仲間を殺されたのだから、怒りを覚えない筈もなかった。
初老の男達が動けば、中年の男達や若い青年達も後に続いた。老人達の熱気に当てられ、彼等も矜持と怒りを燃え上がらせる。アニミスを包囲しつつも遠目から伺うだけの彼等は、いよいよ全員が姿を現して包囲網を堂々と狭めていく。
現れた人間の数は十四。誰もがその手に銃を持ち、アニミスに狙いを付けている。人間達は誰もが顔を確認出来るほど近付いており、確実に銃弾を当ててアニミスを仕留めようとしていた。
無論獣であるアニミスには、人間達が何を企んでいるのかなんてさっぱり分からない。しかし彼等の瞳から敵意を読み取ったアニミスは、自らの行動方針を迷わず選択した。
全員、ぶちのめす!
「キュオオオオオオオオオオッ!」
高々と上げた咆哮と共に、アニミスは人間達に襲い掛かった!
人間達は構えた銃の引き金を引き、銃弾を撃ち出す。まだまだ発展の余地があるこの武器は、されどどれも獣を殺すのに足る性能は持っていた。詰まる事もなく撃ち出された弾丸は、四方八方からアニミスの身体に向かう。
当たればどの弾丸も、それなりにはアニミスに傷みを与えた。黒色火薬の爆発力は自然が鍛え上げた皮膚を易々と傷付けていく。掠めた弾により皮が切り裂かれ、真っ正面から受け止めた皮は破れて筋肉に穴が開いた。出血もあり、じくじくと身体が痛む。
だが、それがどうしたというのか。
皮が裂けるのなんて、トラの牙が深々と突き刺さった時に散々味わった。筋肉が痛むのなど大烏の攻撃で全身くまなくやられている。そして金属の弾は筋肉に阻まれ、アニミスの臓器まで達していない。
人類の叡智を用いた攻撃による傷の痛みは、全部知っているものだ。いや、むしろこんな弱々しいものなど逆に知らないぐらいである。
こんなものに今更怯むほど、アニミスが切り抜けた戦いは生温くない!
「ぶぐぇっ!?」
「ぎぃやぁっ!?」
人間の一人を前脚で踏み潰し、もう一人を後ろ脚で蹴り上げる。どちらも本気を出すまでもない。踏み抜かれた人間は縦にぐしゃりと潰れ、蹴られた人間は吹き飛ばされて大地に転がり動かなくなる。
まだ十二人も残っているが、人間達の心を折るには十分な数だった。
「ひっ!? お、親父! ジョージ!?」
「なんなんだよ!? なんでこの鹿、銃で撃ってんのに死なねぇんだよ!?」
「弾が効いてないのか……化け物かよ……!」
若い者には怯えが広がり、老いた者は驚愕するばかり。自分達がケンカを売ってしまった相手が如何に強大にして無慈悲なのかを知り、怖じ気付いた彼等は後退り。包囲網の範囲がじりじりと広がる。
彼等はこの狩りを始めるまで、アニミスの事を金の塊のように見ていた。二本の立派な角を売り払えば、此処に居た全員が遊んで暮らせるほどの大金が得られた筈だからだ。そして普通のネジレオオツノジカなら、鉛玉を一発脳天に撃ち込めばお終いである。こんな楽に手に入る『金』は他にないだろう。
しかしもう、誰一人アニミスを金とは思わない。
それは恐ろしい自然の猛威。生きている厄災であり、触れてはならない禁忌そのもの。人間の手に負えるものではない。
即ち『魔物』。
そんな魔物に、例え魔物自身はただちらりと目を向けただけのつもりでも、視線が合ったなら――――
「ひ、ひ、ひぃいいいいっ!?」
中年の男の一人が、悲鳴を上げて逃げ出すのも仕方ない事だった。
そう、仕方ないのだが……彼の行動は仲間達を激しく動揺させる。何しろ十四人が一斉に銃を撃ち込んでも倒せない化け物なのだ。戦いにより十二人まで減り、更にもう一人減ったならますます勝ち目はなくなる。
勿論逃げたり死んだ奴の分だけ、分け前は増える。そういう意味でのやる気は出るかも知れないが、明確に迫った命の危機を前にして欲が出るほど、此処に集った猟師達は強欲ではない。彼等は「弱々しい鹿」を狩るつもりで来ただけ。元から命を張るほどの覚悟なんてしていなかった。
命を奪うつもりでありながら、命を奪われるなんて思いもしていなかったのである。死ぬ覚悟をしていない彼等に、強大な存在に立ち向かう勇気など宿らない。
「た、た、たす、助けてくれぇ!」
「化け物だぁ!?」
「お、おい!? 待て、待ってくれ!」
一人目が逃げれば二人目が逃げ出し、二人目が逃げれば三人目、三人目が逃げれば……人間達は次々と逃げ始め、アニミスを取り囲む包囲網は呆気なく崩壊した。
逃げる人間達の中には、邪魔だとばかりに銃を投げ捨てる者もいる。険しい岩山を駆け下りるのに、両手が塞がっていては危ないと判断したのか。全員が必死に走り、がむしゃらにアニミスから離れようとしていた。
しかしながら山での暮らしに慣れたアニミスから見れば、どの人間も皆不格好で愚鈍。追えば簡単に距離を詰め、一人残らずこの地の肥やしにするなど造作もない。
逃げる人間達の背中を見つめるアニミスは――――彼等を追おうとはしなかった。
彼女は優雅な休息を邪魔された事に怒っていたのであり、彼等が遠くまで逃げるのならばそれで構わない。岩山を降りるのは簡単だが、そこまで走るのが面倒臭いというのもある。
何より止めを刺さねばならないと思うほどの、大きな脅威とは到底思えなかった。たくさんの鉛玉を撃たれ、身体は傷付いたが、こんなのは大したものじゃないのだから。
「……フシュー」
ため息のように、鼻息一つ。
『小競り合い』を終えたアニミスは、冷めてしまった身体をもう一度温めようと温泉へと向かう。
野生の世界を生きる彼女にとって母の仇の扱いなど、こんなものでしかなかった。