4.たゆたう二人
目が覚めたらすでに夕暮れ時だった。
「いっけない! 夕餉の支度をしなくちゃ!」
起き上がった珪己はやけに体が軽いことに気づいた。
「……やっぱり晃兄の言う通りなのかなあ」
眠れば眠った分だけ体調が良くなる。
何か悩んでいたとしても、起きたらどうでもよくなる。
たとえば実家のある開陽に戻れないこと。たとえば芯国の王子のこと。仁威がいなくなってしまったこと。皇帝の子を身ごもったこと。本来であればどれもが非常に重大なことなのに、眠り、起きれば些細なことに思えてしまうのだ。遠い山の向こうに放り投げてしまった幼き日々の思い出のように……。
睡眠とはこれほどまでに万能なものだったろうか。
そして寝起きの頭で決まって考えることは、「自分の体を大事にしなくちゃ」、これに尽きるのである。
日中に寝るだなんて活動派の珪己には本来考えられない行為だ。晃飛が労働に勤しんでいるというのに、もう体は回復したというのに。だが自分を責めだすと決まって頭に靄がかかってしまう。
(妊婦は血が足りなくなりやすいというから、きっと貧血のせいだ。……きっと)
考えるそばからくらっとして、珪己は軽く頭を振るった。
(……今はあんまり色々考えないようにしよう)
結論付けると、珪己はおろしていた髪を簪で適当にまとめて台所へと向かった。
だが、罪滅ぼしのためちょっと手の込んだ料理でも作ってみようか、それとも品数を増やしてみようか、そんなことを考えつつ作業を進めていたら、あっという間にてんてこまいになった。
「えーと、まずは芋を切って煮付けて、それから葉物をゆがいて和え物にして……」
晃飛のおかげでそれなりに料理はできるようになっていたが、まだまだ半人前、しかも頭が回らない状態では複雑なことを同時にこなそうとするのが無謀なのだ。
それでも孤軍奮闘、あくせくと調理をしていると、日没特有の緋色の空が西の方で消えかかる直前に「ただいまー」と晃飛が戻ってきた。
珪己はかまどの上でぐつぐつと煮える鍋の熱気に汗しつつ、包丁を握ったまま振り返った。
「あ、お帰りなさい」
目が合い、ざっと周囲を一瞥した晃飛が一瞬で表情を硬くした。
それに珪己は小さく体をすくめた。
「……すみません。まだご飯できてないんです」
この時間に晃飛が帰ってくることは分かっていた。
なのにまだ夕餉の準備は半分も終わっていない。
申し訳なさのあまりうなだれた珪己に、なぜか晃飛が腕まくりをして近づいてきた。
「俺がやるから君はあっちで座ってな」
そう言うや問答無用で珪己の手から包丁を奪った。
「で、でも」
「いいって」
トントンと葱を刻みだした音は、珪己がやるよりもずっと早くて手慣れている証拠だ。刻み終えるや両手で掬いさっと鍋に入れ、その流れのまま隣の別の鍋の様子を確認し調味料で味を調えていく。動きに無駄がなく、さすがは一人暮らしが長いだけはある。もはや珪己の出る幕はどこにもない。
だが、それでも珪己は抵抗した。
「晃兄はずっと働いてたんですから私がやります!」
「そんなこと関係ないって。俺がやりたいからやるの」
「でも疲れてるはずですから!」
「全然疲れてない。これくらい楽勝だし」
確かにそのとおりなのだろう。だが珪己は言い募った。
「さっきまで寝てたから体調もいいんです。だから私にやらせてください!」
妊娠が発覚してから、珪己は晃飛に安静を命じられている。
水は冷えるから駄目だと洗濯をすることを禁じられ、外で倒れたら危ないからと畑仕事も禁じられている。はては激しい動きだからと掃除全般までもが禁じられたのがつい一週間前のことだ。掃除といっても、掃き掃除や拭き掃除は全然激しい運動ではないし、全然負担にもならないというのに。
これで料理もしないとなると、本当に珪己は何もすることがなくなってしまう。この家に住みつき、ただ食べて寝るだけの存在になってしまう。
晃飛のお荷物にしかならない、ただの役立たずに成り下がってしまう。
(そんなの嫌だ……!)
だがそう思ったところで頭の奥の方がぼんやりとしてきた。
(なに、これ……)
(何か大きなものに飲み込まれていく、ような……)
少しふらついた珪己に晃飛が目ざとく気づいた。とっさに包丁を置き、その手で珪己の肩を抱いて支える。俊敏さは武芸者ならではだ。
「ほら! だから休んでろって言っただろ?」
「う、ううん……。でも……」
脳内に広がる霧はけっして珪己を苦しめるものではない。気分はまったく悪くない。ただ考えることや何かをすることが億劫になるだけだ。それは苦しみの反対、快楽の味によく似ていた。
目をつむると瞼の裏いっぱいに深紅の海が広がって見える。甘くて温かい不思議な海が見える。珪己の思考を柔らかくからめとっていく紅い波が――。
たゆたう感覚は揺りかごに乗っているかのように心地よい。知っているようで知らない、知らないようでいて知っている心地よさは、懐かしくて快適で、いつまでもこうしていたくなる。そう……まるで幼子であった遠き日のように。
「ほら、部屋に連れてってやるから夕餉ができるまで寝てな」
もう抵抗する気も――起きない。
横抱きにされ運ばれていく間も、珪己はもはや自分のことをお荷物だとは思わなかった。ただただ満たされていた。慈しまれ眠る赤子のように、護られ甘やかされていることに満ち足りていた。
そんな珪己に晃飛は違和感を覚えない。それは死神の姿を何度も目撃しているが故のことで、また、『この世界の守護者』が操作する波動の影響を受けているせいでもあった。苦しみ軋んだ晃飛の心は、己が望むことに従順になり、それゆえ盲目になってしまっていた。
だが二人はその事実には気づかず、お互いが現状に心から満足していた。
『私、絶対に生きることをあきらめない! それに生きることっていうのは、ただ呼吸をして日々を過ごすことじゃないっ!』
あの日、死の淵に両足を突っ込んだような状態で、半分意識を飛ばしながらも珪己が叫んだことは――。
『お願い、私に選ばせて。大切なものを捨てさせないで。お願い、お願いだから……!』
晃飛に向かって珪己が叫んだ望みは、一体どこに姿を消してしまったのか。
解放されたはずの真の願いは――忘れ去られてしまったのか。
今年、零央ではいつにも増して星がよく瞬いている。