3.紅い海の夢
ふわふわと、闇空の中を珪己は舞い降りていく。
体はひどく軽い。裳(下半身に巻くスカートのようなもの)の裾が下方から受ける風圧で乱暴にはためいているが、珪己自身はどこまでも静かに舞い降りていく。
見下ろす先には一面、深紅の海が広がっている。空間の闇の深さとは対照的な、炭火を隙間なく敷き詰めたかのような深い紅の大海だ。
ここで珪己は合点する。
ああ、夢を見ているのだな、と。
さらにもう一つのことにも気づく。
ああ、また同じ夢を見ているのだな、と。
このところ眠るたびに見る夢がある。目覚めればすっかり記憶から抜け落ちているのだが、眠り、この世界に戻ってくるたびにすべてを思い出すのだ。
ふわふわと、珪己は深紅の海に近づいていく。
そこに白く長い髪をたなびかせた女性が座っているのもいつものことだ。
目を閉じ、身じろぎ一つせず、白髪の女性は海面に『座って』いる。
熱くはないのだろうか。そう詮無いことを考えてしまうのもいつものことだ。なぜなら珪己の方は下へ下へと降りていくほどに体がほてってくるからだ。夢の中なのに、炎であぶられているかのように皮膚の表面が熱くなっていく。灼熱のほどは真夏の太陽以上だ。
そして――珪己のつま先が深紅色の海面に触れたとたん。
頭上に無数の星が勢いよく散りばめられた。
一度にたくさんの蝋燭を灯したかのような、実際の世界ではお目にかかれないような無数の輝きに、珪己はとっさに目を細めた。それでも、
(……こんなにたくさんの星なんてほんとはないのに)
人工的にしか作りえない華やかな夜景に珪己が自嘲気味な感想を覚えた、その時。
「それは違う」
白髪の女性が言葉を発した。
化粧気のない顔は髪の色に引けを取らないほどに白い。唇など、逆におしろいをはたいて白く染めたのではないかと思えるほどだ。
命ある人間の特徴を故意に削いだかのような、人形のような面立ちの女性は、感情一つ浮かべることなく慇懃な物言いで語っていった。
「おぬしの目に見えないだけで空にはこれ以上の星が存在する」
よほど身分が高い人なのか、それとも普段からこのようにふるまう人なのか。
「光は真の暗闇の中ではより一層強く輝くものなのだ。おぬしがそれを知らないだけでな」
どことなく見下されているような気もするが、いつものことだから珪己は気にしないようにしている。
「あなたは誰なんですか」
「我はこの世界の守護者である」
「どうして私にこの夢を見せるんですか」
「この世界を護るためである」
夢を見るたび、珪己は同じことをこの女性に問うてしまう。だが女性の答えは変わらない。自分はこの世界を護る者なのだと、そう一言一句違わず答えるだけだ。
これは夢だ。夢なのだ。そう分かってはいても、珪己は真実を知りたくてたまらなくなる。同じ夢を見ることに意味などないかもしれないのに……夢は夢でしかないのに。
「なぜさっき私が考えたことが分かったんですか?」
今まで問うたことのない質問にも女性は気負うことなく答えていく。
「星が我に教える」
「星……ですか?」
「ああ」
支離滅裂に思える会話は続けても無意味なのだろう。
だがどうしても無視はできない。
なぜなら――。
「あなたから……強い何かを感じるんです」
それはこの夢に訪れるたびに感じていたことだった。
「それは我がこの世界の守護者であるからだ」
相変わらずの素早い応答に、珪己は少し考え、付け加えた。
「この世界を護るためにあなたは私の夢に現れるのですよね」
「ああ」
「あなたはどのような方法でこの世界を護ろうとしているのですか?」
見るからに熱そうな紅い海面上で涼しい顔をして座する女性は、膝の上に揃えていた手の一方を上げるや、すっと、人差し指で珪己を指した。
「おぬしを護ることで」
「……私を?」
「ああ。おぬしと……その御子を」
言いながら女性は指を珪己の腹へと向けた。
「私と……私の赤ちゃんを?」
ほわんと、下腹の方が柔らかな熱を持った。
見れば、体の奥から淡い光が放たれている。
柔らかな光の色は、白に少しの黄色が混じっていた。
そう、まるで月光のような――。
「我は御子を護らなくてはならない」
星灯りを受けて女性の白さは際立つほどだ。髪も肌も衣も何もかもが白い。純白、その一言で例えることのできる曇りのない白のみをまとっている。
そして女性はその瞼の開かない瞳で、じっと珪己を『見つめて』いる。
「だが『世界』はおぬしを護ることも強く望んでおられる。であるから我はおぬしのことも護らなくてはならない。しかしおぬしの身に降りかかるすべてのことを排除できるほど我は有能ではない。ただ星の声を聴き、波動を読み、遠方からほんの少し操るだけ……」
「私……」
逡巡したのはわずかな時間だった。
珪己は女性をきつく睨んだ。
「私はあなたに護られなくてはならないような人間ではありません……!」
「おぬしが弱いと言っているわけではない」
女性が薄く笑った。
幾多見た夢の世界において、初めて女性が見せた意味のある表情がこれだった。
「本当に人の心とは難しい。あの方も同じように我に憤られた。人の心を理解できないと我を罵られた」
「……あの方って?」
「この世界のことだ」
理解しがたい話ばかりが続き、珪己の胸中に憤りの芽が育ちかけたところで。
「おぬしは非常に強い魂を有している」
その芽は真摯な声音によって裁断された。
圧倒的な力で、問答無用で。
「それこそが世界がおぬしを求める理由なのだろう。だが不運も不幸も災難も、望まずともやってくるもの。それもまた人の世の常……」
ばくばくと鳴りだした心臓に戸惑う珪己をよそに、女性はなめらかに語っていく。
「我はそれらを可能な限り排除しなくてはならない。それが我の勤めだから」
「……星の声を聴いて?」
「ああ」
「波動を読み……操って?」
「そうだ」
うるさく鳴る胸を押さえながらも珪己は必死になって考え続けている。だがどうしても分からない。この女性が何を言いたいのか、それがさっぱり分からない。
珪己が口を閉ざしたため、あれほど雄弁であった女性もすっかり無言になってしまった。
ただ、二人を差し置き頭上の星々はうるさいくらいに瞬いていた。大小さまざまな星があちらで光り、こちらで光り。ちかちか、ちかちか。瞬くたびに、光はまっすぐに珪己の身を貫いた。誇張ではなく、確かに星々のすべては珪己一人に向いていたのだ。
光を受け入れる、それ以外のことは一切ゆるされなくなっている。
動くことも話すことも、考えることも――何もかも。
光が体内に集い満ちていく。
それとともに深紅の海が、珪己の足先、触れているところから光り輝いていく。
にじみ出るように生まれた光は最初はごくわずかだった。
だが時とともにじわじわと径を拡大している。
珪己を中心に光の領域が波紋のように広がっていく――。
紅い海が圧倒的な光に浸食されていく様子は、神々しくもあり強烈な畏怖を感じさせた。
――やがて。
海面すべてが光によって染め直されたところで。
「また会おう」
女性がそう告げた途端――。
珪己は問答無用で真の眠りの世界へと引きずり込まれた。
*