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2.過保護

「じゃ、仕事行ってくる」


 晃飛がすべての食事を平らげて席を立つと、向かいに座っていた少女――よう珪己けいきもまた席を立った。


 それに晃飛がちっと舌を打った。


「ああもう」


 そそくさと珪己に近づき、両肩に手を置き、無理やりもう一度座らせる。


「駄目だって。安静にしていないと」

「もう元気ですから」


 そう言って見上げてくる珪己がいくら不服そうな顔をしていても、晃飛は決して取り合わない。


「駄目、駄目。また出血したら大変だからね」

「でもかん先生はもう大丈夫だって言ってます。それに妊娠は病気じゃないんだし太りすぎると良くないから適度に動いた方がいいって……」


 しかし珪己がいくら同じことを繰り返しても、晃飛の返事もまた決まっている。


「あの先生は妊娠なんて専門外だし詳しいことを知るわけないんだ」


 そう言われてしまうと珪己には晃飛を説得できる材料など一つもない。医師の言い分を信じないというのは珪己にとってはあり得ないことなのだが、晃飛は自分自身を唯一無二の指標として生きているような人間で――そんな晃飛を論破できる理屈など、まだ人生経験が豊富ではない珪己には逆立ちしたって思いつくわけがないのだ。


 しかも極めつけはこうだ。


「……君のことがほんとに心配なんだよ」


 不安そうにひそめられた眉、真摯な想いに満ちた視線を受ければ――もう何も反論できなくなってしまう。


「……はい」


 玄関まで晃飛のことを見送りたかっただけなのにこうも連日過保護にされ、正直、珪己はやり切れない思いを抱えている。だが晃飛の方は逆にひどくほっとした顔になった。


「洗い物は台所に運んでおくけど君は洗わなくていいからね。あ、急須に湯冷ましを入れておいたから喉が渇いたら飲むんだよ。生水は絶対に駄目だからね。それと籠の中の柿、君のために隣からもらってきたんだからお腹がすいたら食べてよね」


 何から何まで事細かい。

 もちろんその心遣いは嬉しいのだが……。


「じゃ、俺が帰ってくるまで寝てるんだよ」


 なぜもう元気なのに、天気もいいのに、昼間から寝なくてはならないのか。


 だが反論すればそれ以上の言葉で説き伏せてくる姿は簡単に予想できるから、珪己は頬をひくつかせながらも笑顔で晃飛を見送った。もちろん、座ったままで。



 *



 妊娠していることに珪己が気づいた、いや気づかされたその翌日。


 袁仁威が突然零央から――この家から姿を消した。


 そのことに珪己は安堵と悲しみという両極端な感情を覚えた。


 ほっとしたのは当然、妊娠について知られなくて済んだからだ。すぐに説明できるほど大人でもないし賢くもない。それ以前に、初めて恋した人に「他の男との子ができた」と堂々と打ち明けられる女はそうそういないだろう。


 悲しみの理由も当たり前だ。好きな人がいなくなったのだから悲しくならないほうがおかしい。


 そう、珪己は仁威に強く惹かれていた。


 これほどまでに誰かを好きになったことはなく、正真正銘これが初めての恋だった。


 だがその気持ちを整理するよりも先に――仁威はいなくなってしまった。


「うちの店の子が一人亡くなってね」


 当時、流産しかけて寝台に伏していた珪己の元にやって来た芙蓉――晃飛の実の母であり零央一の妓楼、環屋の女将――は、その日憔悴しきった顔でこう切り出してきた。


「名前は桔梗ききょう。この前うちの馬鹿息子が隼平しゅんぺいに迫るようにけしかけた妓女って言えば分かるかい?」

「は……い」


 それは仁威から直接聞いた話だった。


 その妓女は仁威に振られ、悲しみのあまり店から飛び出して騒ぎを起こしたのだ――と。


「でもどうしてそんなことに……?」

「嫌な客に出くわしちまったのさ」


 言い捨てた芙蓉の顔はひどく苦々しげで、だから珪己はそれ以上詳しいことを訊ねることはできなかった。ただ、運命の恐ろしさと命の儚さ、生の無情さを痛感するにとどめる他なかった。しかしそれだけでも当時の珪己にとっては十分な負荷となった。なんといっても、珪己はその数日前に死にかけたばかりだったからだ。


 同じ人を好きだった女性がつい先日死んだ。


 自分は生き残ったのに――その女性は死んでしまったのである。


「隼平がそいつを倒してくれてさ、ほんと助かったよ。それ以上の被害が出なくて済んだのは隼平のおかげさ」


 それを聞くや塞ぎかけた珪己の胸を満たしたものは――ほのかな感動だった。


 ひどく仁威らしい行動だと思った。


 あの人ならきっとそうする。そういう人だから、だから……。


 だが胸に満ちかけた温かい感情はつづく芙蓉の言葉で完全に消え失せた。


「だけど隼平は『ここ』では目立ったらいけないんだろう? だから私の一存でしばらくこの街から出てもらったんだ。お嬢さんには悪いことをしてしまったけど、ここは私の顔を立ててもらえないかねえ」

「……どうしてそれを?」


 喪失の悲しみを押し殺し、ようやくその一つについて尋ねると、


「分かるさ。見ていたら分かるって」


 ひどく真面目な面持ちで芙蓉が断言した。


「ああ、だけど」


 そこで芙蓉がかぶりを振った。


「隼平のこともお嬢さんのことも、詳しいことを訊くつもりはないし訊きたくもないよ。知らない方がいいこともこの世にはたくさんあるからね」


 まさか自分のことまで疑われていたのかと、一転、珪己は冷や水を浴びたかのような気持ちになった。まだ芙蓉とはそこまで会話を積み重ねたことがあるわけでもないのに――。


 だが思い起こせば、出会った当初から芙蓉は珪己の素性を鋭く見抜いていた。湯場での振る舞い一つで開陽のいいところのお嬢さんであると見抜かれた時のことは、思い出すだけで恥辱を感じるほどだ。


 だが芙蓉は珪己の中に芽生えた様々な想い、感情には頓着せず、淡々と話を続けていった。


「桔梗の一件が風化して調査がひと段落した頃には……そうだね、遅くとも年明けには戻ってこれるんじゃないかい」


 年明け――それは近いようでいて限りなく遠い。


 追憶をやめ、珪己はそっと腹をなでた。平らないつもどおりの腹ではなく、ほんのり膨らんだ腹を。


 晩夏の食欲不振の時期を乗り越え、秋に入り、しばらくしたら気づいたのだ。明らかに腹が膨れてきたことに。だがそれは本人が自覚できる程度のもので、一緒に暮らしている晃飛にもまだ気づかれてはいない。


(自分の体が変わってきているのが……なんだか怖い)


 八歳の頃から武芸の稽古に明け暮れていた珪己の体は、細身ながらも適度な筋肉がついていて、贅肉はないに等しかった。日々鍛錬を積んでいることの証、その一つがこの体だったのだ。だがこの調子では八年の歳月などあっさりと無に等しくなるのだろう。


 妊娠を知った日以来、珪己は木刀を握っていない。体調が良くなってから一度持ってみたことはあるにはあるが……ひどく重く感じてすぐに壁に立てかけ直してしまった。


 晃飛に言われなくても、珪己にも分かっているのだ。今が大事な時で、だから慎重に行動すべきだ、と。


 しかしそうやって何の鍛錬もせずにいたら、じわじわと筋肉は減っていった。代わりにこれまで無縁だった贅肉がうっすらと全身に積もっていった。


 その変化に、診察に訪れる医師は「よしよし」と満足気にうなずき、時折様子を見に来る芙蓉もまた安堵の笑みを浮かべる。晃飛などは過剰なほどに喜び、珪己の頬を暇さえあれば撫でるようになってしまった。分かりやすく肉がつき血色の良くなっていく頬は、どうやら晃飛にとっての精神安定剤と化しているようだ。


 そう――晃飛はあれ以来、過剰なまでに心配症になってしまった。


 かりそめの妹が死にかける場面に出くわしたせいで、これまで以上に死というものに怯えてしまっていたのである。


 しかも今は『かりそめの妹』が諸事情によって『かりそめの嫁』になってしまっている。


(どうすればいいんだろう……)


 悩みは尽きない。


 本当は自分のことくらい自分でどうにかしたいのだ。そのために武芸を学び始めたのだから。……いや、本当は自分のことを護るだけでは嫌なのだ。大切な人のことも護りたいのだ。そういう自分になりたくて武芸を始めたのだから。


(なのに結局、一人で生きることすらできないなんて……)


 ひゅうっと、窓の隙間から冷風が細く吹き込んできて、珪己は鳥肌のたった二の腕を抱いた。


 窓にはめ込まれた板の間から庭の方を眺めると、ほとんどの葉を失った樹木の存在がやけに寂し気に映った。畑の方も葉物中心の冬野菜ばかりで、ここにやって来た頃のような暴力的なほどの色鮮やかさは今や影も形も見当たらなくなっている。ただ、天に燦々(さんさん)と輝く太陽だけが夏の気分を捨てきれないでいる。


 庭に出る気にもなれず、かといって他に行く当てもなく、珪己はため息をつくと自室へと戻った。そして簪を抜いて髪をおろし、晃飛の言うとおり寝台に横になった。


 何をすればいいか分からないなら分かることをするしかない。


 今の珪己が選べることは、この身を傷つけないこと、晃飛を安心させること、この二つくらいしかなかったのである。


(眠れるかどうかは分からないけど、とりあえず横になっていればいいよね)


 確信のもてないまま柔らかな掛布にもぐった珪己だったが、目をつむれば想像以上にあっさりと睡魔が訪れた。


 結局ものの数分で眠りについたのである。

 


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