6.もう迷わない
珪己はその夜、部屋で一人自問していた。
何度も何度も自問し――そして一つの結論を導き出した。
それにようやく安堵して眠り、そしてまだ暗い時分に静かに目を覚ました。気配を押し殺して寝台から降りると足の裏にひんやりとした感触が伝わってきて、そこからさざ波のように全身に鳥肌が広がっていった。
それでも珪己はためらいなく行動を起こしていった。まず身に着けていた寝間着――空也の服――を脱ぎ、代わりにずっと畳んだままになっていた自分の服を着た。それから髪を簡単に結って二本の簪を刺した。そして沓を履き、外套を纏った。
最後にやや感傷的な面持ちで室内を見渡した。だが戸に手をかける際には、一転して研ぎ澄まされた表情になっていた。
音を立てないよう気をつけながらそっと居間を覗くと、案の定空也はまだ眠っていた。仰向けになった胸がゆっくりと上下するのに合わせて、深い呼吸音がさざ波のように響いている。
だが珪己がその横をそろそろと歩き、とうとう玄関にたどり着いたところで、
「どこに行くんだ」
突然、背後から声を掛けられた。
「あ……」
振り向くと、いつの間に起きたのだろう、空也は床の上であぐらをかいて座っていた。
「答えろよ。どこに行こうとしてたんだ」
鉢の中で燃える炭火以外に明かりがないせいか、暗がりの中で見る空也の表情はひどく険しく見えた。
いつまでも答えようとしない珪己に、空也が跳ねるように立ち上がり近づいてきた。
「出ていくのは俺が変なことを言ったせいなのか?」
それでも答えようとしない珪己に、空也がいら立ちを含んだ乱暴なため息をついた。
「……悪かったよ。俺ももっと気をつけるからさ」
「違いますっ!」
とっさに珪己は否定した。
「違います、空也さんは悪くありません!」
「じゃあどうしてこんな時間にこそこそ出て行こうとするんだよ」
「それは……謝ります。すみません」
視線をさまよわせ、ぐっと眉をひそめたのは一瞬のことだった。
真剣な面持ちに転じると、珪己はそのひたむきな目で空也を見つめた。
「私、行かなくちゃいけないんです。私の帰りを待っていてくれる人がいるから」
昨夜、空也は『強くなりたい』と言った。
兄に迷惑をかけたくない、とも言っていた。
それを聞いた瞬間、珪己は目が覚めた思いがした。いつまでもうたたね気分でいた自分にあらためて気づかされたのである。
そして自分一人が不幸を背負っているわけではないことにも気づかされた。誰にも悩み傷つくことがあるのだと、苦しみ悶えることがあるのだと――あらためて気づかされたのである。
誰の人生にも春があり夏があるように、秋もあり冬もあるのだ。
珪己にとって今この時が厳冬そのものであるように、見も知らぬ誰かにとっても同じ季節が巡っているかもしれないのだ。
そして、今。
もしも今が先の見えない厳冬の真っただ中にいるのだとしても、それに嘆き悲しむだけでは何も変わらないことにも気づいたのである。寒いから、無理だから、と何かしら理由をつけて諦めていては駄目なのだ……と。
もしもそれで動かないとしても、すべては自分自身の選択の結果なのだ。状況を見て『動かないようにしよう』『このまま悲しみに暮れていよう』と決めるのは、他の誰でもない自分自身なのだから。そう、『動けない』ではなくて『動かない』だけなのだ。
だから珪己は昨夜一人になってからもう一度よく考えたのだった。己が望むことは何なのか、思いつく一つ一つを丁寧に取り出し、目の前に並べ、それぞれを吟味しなおしたのである。
その結果は――。
「私も空也さんと同じなんです。強くなりたいんです。誰にも迷惑をかけない人間になりたいんです。それに……会いたい人にも会いたいんです。自分の思う通りに生きたいんです。私、こう見えてすごく我がままなんです」
望むことすべてを叶えたい、それが珪己の偽らざる本心だった。
「長い間お世話になったことは感謝してもしきれません。だけど行かなくちゃいけないんです」
「……今すぐ?」
「はい。今すぐ」
今、珪己が己の願いを叶えるために行動にうつせること、それは『この家を出る』ことだけだった。
まずは零央の街に、晃飛の待つ家に戻りたい。
そして晃飛と話したい。
いつの間にか失ってしまった秋と初冬について、腹の子について――腹の子の父親について。どうしてこの子を宿すことになったのか、そのことについてもきちんと説明したい。聞いてもらいたい。
そして――できるならばこれらを踏まえて仁威のことについても語り合いたい。今、仁威はどこにいるのか。どうしているのか。いつこちらに戻ってくるのか。――もう戻ってこないのか。
仁威は言っていた。珪己を開陽に戻す算段がつけば自分はどこぞへと消えるつもりだ、と。芯国の王子を打ち負かした自分は開陽に戻ることはできないし、国の安寧のためにもそうすべきなのだ、と。
多分それは事実で、これについて珪己は一度も否定したことはなかった。
(だけど――)
空也が率直に訊ねてきた。
「会いたい人って誰?」
普通、こんなことを身重の女に訊ねたりはしない。夫か恋人、少なくとも家族のことを指すのが相場だからだ。
だが珪己は迷うことなく答えた。
「大切な人です。私にとって一番大切な人」
大切な人――その一言があの人をたとえるのにもっともふさわしかった。
(私、やっぱりあの人のことがすごく大切。すごく大切で……すごく愛おしい)
だが仁威は自分は開陽には戻れないと決めつけているし、一人あてどもなく放浪する生涯を受け入れてしまっている。珪己がそばにいる未来など、きっと想像すらしていないだろう。
(……それに私は開陽に戻らなくちゃいけない)
枢密使の娘である自分が行方をくらましたままでは父に対して面目がたたない。いや、それより何より、父娘二人の家から自分がいなくなってしまうわけにはいかない。きっとこの世でもっとも自分のことを心配しているのは父だからだ。
(……それにお腹の子のこともある)
現皇帝の子を宿しているという事実は何よりのくさびとなっている。これほどまでに尊い子を宿したのだから、本来であれば何を差し置いても全力で赤子を護るべきなのだ。
それにまだ実感はわいていないが……腹の子が生まれればきっと人並みに愛着がわくだろうし、子を持つ母となればより安全で確かな生活を望みたくなるだろう。つまりは開陽で、後宮で一生を過ごす未来を選びたくなるはずだ。
どれだけ考えても、たどり着く最適解は一つしかない。
まずは赤子を無事に産む。
それから開陽に戻る――晃飛とも仁威とも別れて。
でもそれはやっぱり嫌だった。
受け入れられなかった。
安全で確かな道を選ぶということは、自分自身に弱さがあるからではないか。
本当に強い人間ならば、どんな逆境にも運命にも勝てるのではないか。
最良な道と望む道が一致しないことは誰にでもあるはずで、最良でなくとも選びたい道が見えることもあって――。
(きっと本当の強さって、正しいことを選び取る鼻の良さや器用さのことなんかじゃない)
本当の強さとは己の信念を曲げないことなのではないか、そう珪己は思い至ったのであった。
しかもここでいう信念とは世間一般の正しさのことを指してはいないはずなのだ。自分自身が選び取った価値観、哲学、思想、そして願望のことを指すはずなのだ。
(私たちは誰かのために生きているわけじゃないんだから……!)
様々な偉人が紆余曲折を経て見いだしてきた真理に沿うために生きているわけではないのだから――。
もちろん、この世の原理原則に従うために生きているわけでもないし、望む誰かのために生きているわけでもない。
そう、己の中にあるただ一つの心、そこに宿る信念に沿うために人は生きているはずなのだ。己が従いたいと思える信念、叶えたい望みのために人は生きているはずなのだ。
(ううん、誰もがそうじゃないのかもしれないけれど……)
(でも私は……!)
「私、もう迷わないって決めたんです。だから会いたい人に会いに行きます」
これ以上腹が大きくなって身動きが取れなくなる前に、いつまた天候が悪化して外を出歩けなくなる状況になる前に。
「私、行きます」
珪己の宣言はどこまでもすがすがしかった。心に迷いがない時、声音は限りなく澄んだ色で響く。そこには決意できた自分を誇るような浮き立つ感情も含まれていた。
視線を真正面から受け止めた空也が少し逡巡する様子を見せた。だがそれはわずかな時間のことで、空也は壁にかけてある己の外套を取るとさっと体にまとった。
「分かった。俺も行く」
予想外の展開に珪己の理解が遅れた。
「で、でも!」
「でもじゃない。俺も付いていく。一人で行かせて何かあったらって悶々としている方がよっぽどしんどいし」
「でも!」
「うるさいなあ。これは俺の勝手だ。だから珪亥が気にする必要はないんだ。だけどちょっと待っててくれよな。何事も準備が肝要だって知らないのか? そんなふうに手ぶらで雪山を踏破しようなんて勇敢じゃなくてただの馬鹿、自殺行為だぜ」
憎まれ口を叩きながら消えた空斗は、本人の言葉通りちょっとの時間ですぐに戻ってきた。ぱんぱんに膨れた袋を背負い、手にはすでに小さく火のついた松明まで持っている。
「ほら」
空斗がもう一方の手に持っていた頑丈そうな沓を無造作に放ってきた。それを珪己は慌てて空中で掴んだ。
「それ、雪用の沓。水がしみ込みにくいし滑りにくいんだ。男物だし緩いと思うから、つま先に布でも詰めて調整してくれよな」
「ありがとう……ございます」
ぎゅっと沓を抱きしめた珪己は、すぐさま椅子に座って沓を履き替えた。
(もう迷わない)
(もう立ち止まらない……!)
その横顔には決意の強さのほどがありありと読み取れた。
*
そして二人は徐夕の早朝、いまだ夜としか思えない薄暗い時間帯に家を出た。
星も月も一切見えず、二人を零央の街まで導くものは松明一本と空也の有する地理的な知識、それにお互いの決意だけだった。
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